
ハッピーハート牧場から来たカウボーイ
著者:B. M. バウワー
訳者:望月ともたり
山道が岩場に沿って急転回し、チキータ*1の谷辺へ向かって不意な下降を始めるちょうど手前でハナハンは馬を停めた。その無雑作な挙動で図らずも砂煙を巻き上げたのは彼が思案に没頭していることの表れだった。
遥か彼方の丘は小春日和の暖かさに黄色く霞んでいた。大気をちらつかせる熱波が人を白昼夢へといざなうほどだった。とはいえ、ハナハンは夢うつつだったわけではない──彼の眼差しはあくまで真っ直ぐ、ある意図をもって向けられていた。あたかもチェスに興じるかのように渓谷をチェス盤に見立て、眼下の平地を観察していたのだった。
チキータ渓谷は牧畜業者にとっては楽園のような場所だったが、ある小規模な農家の支配する耕作地となっていた。平原に厚く生い茂った芝地は開墾されて灰褐色の畑となり、厚さ4インチの肥沃な土壌の下には上質の牧草が埋まっている。かつて野生の牛が自由に徘徊していた放牧地には長い金網フェンスが敷かれ、耕作地を格子状に切り取り、用心深く監視するかのように細い路地が取り囲んでいた。
ハナハンは紋様の施された鞍のあおり革でマッチを擦り、気を取られたまま両手で火を覆った。彼の視線がたどった道のりの先では、不穏に蒼い水を湛えた川が切り込んでいた。その遥か向こうではくっきりと黄色い丘陵の斜面に褐色の縞模様が引き立って見えていた。
馬のチントはためらいながら前脚を上げたものの、主人から前進の命令が出ないので機嫌を損ねて小麦粉のような目の細かい砂地に足を下ろした。首を曲げて非難がましく後ろを振り返り、左右の耳を互いにあべこべに向けた。暑さと疲労にやられていて、のどを潤してくれる冷たい川の水を渇望していたのだった。しかしハナハンが肺から煙草の煙を吐き出すほか微動だにしなかったので、チントは深く溜息をついてさらに待ち続けることにした。しばらくすると、下り坂を向いて垂れ下がっていた耳が注意を惹かれてピクリと動いた。もう片方の耳はのどを鳴らすハナハンを放置して前方に聴き入った。山道の視界を遮る岩場の向こう側を恐れてチントは両眼を瞠り、緊張で耳を硬直させた。ハナハンもまた本能的に警戒して谷間から目を上げて考え事をやめ、同じように耳を澄ませた。
若い女が馬に乗って岩場を悠々とめぐって近づいて来た。初めは無頓着な様子でハナハンに一瞥をくれたが、すぐに何か関心を抱いたようだった。ハナハンは突然、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じて、グレーの帽子を額から浮き上がらせた。
「おはよう。久しぶりに会った友人を追い払うなんてことはしないだろうね?」
「あら、ハナハンさん──ハッピーハート牧場のハナハンさんじゃないの! どんな風の吹き回しなの? あなた、イスラエルの土地のすぐそばまで来てるじゃない、ペリシテ人の身の上で*2」
「おっと、言いがかりはやめてほしいもんだな、コンラッドさん。俺は馬の前脚を境界に掛けて踏みとどまってるはずだぜ。それが一体どうしたってんだ?」
「あの辺りじゃカウボーイを歓迎する人なんていないってことくらい知ってるでしょう?」
彼女は颯爽と手を振って眼下の低地を指した。
「あんた、個人的な意見からそう言ってるのかい?」ハナハンは煙草を投げ棄てた。
「わたしはイスラエルの民の立場から話をしてるの。まさにあなたみたいなカウボーイと遭遇する機会をみんなが願ってて、生きて帰すつもりもないんだから」
「その願いが叶うかどうかはすぐに答えが出そうだ。俺自身がその願いへの直接の回答ってことになるからな」恐怖とは無縁の口調だった。
コンラッド嬢は笑った。「境界を越えてはだめ。もしあの川の浅瀬に近づけば、あなたにとって良いことなんて何一つないでしょう。みんなすぐそばで見張ってるし──それに前回のことでまだ気が立ってるから」
「前回っていつのことだ? ビッグ・A. J.*3は今年はまだ動いちゃいないぜ」
「でもほかの牧場の人たちがすでにやらかしてるでしょ。それに牛飼いが絡むことにかけてはイスラエルの民は見境がなくなるの。日曜日の午後に牛の大群を率いた一行が道を下りて来たことがあって、それで軽率にもウィリアム・マッキンリー・ルーズベルト・ジョーンズ*4が自転車に乗ってるところに出くわしちゃって」
「その名前に驚いて牛の群れが暴走したんじゃないかな」
「まさか。ウィリアム・マッキンリー・ルーズベルト・ジョーンズが出向いて行ったけど追いつけなくて。牛の群れは現れると同時に出て行ったの。ハドリーおじいさんの小麦畑を突っ切って、そこから未亡人のマッコイさんのところの庭に入って行ったってわけ。マッコイさんに会ったことはあるの?」
「いや。でも噂なら聞いたことあるぜ」ハナハンはニヤリと笑った。「持病は癇癪で、子供は息子が一人いたよな?」
「そう。でも癇癪と息子のどっちが手に負えないかは意見の分かれるところかも。ただ、患っている癇癪の持病は一つでも、息子のほうは二人いるから。その二人がやることといえば、牛が山道を下りて来るのを見張るか、そうでなければ襲撃のチャンスが到来するのを待ち焦がれるか、ただそれだけ。ハナハンさん、この道を下りて行くのは考え直した方がいい」
「そいつらには俺が格好の獲物に見えるかな」ハナハンは新たに煙草の葉を器用に指で巻き上げながらつぶやいた。「あんたがどうしてチキータに住み着いたのか、まだ聞いてなかったな」とハナハンは、ふと気がついて尋ねた。
「学校で教えてるの。実家の近くじゃ教師の職は見つからなくて。お給料もいいし」
ハナハンはため息をついた。「人は金のためなら何だってやるってことだな! 俺を見てみろ。たわいのない農夫どもを警戒してこんな所をうろうろ──」
「つまり、川の浅瀬を狙ってるってわけでしょ?」
「ああ、確かにあの浅瀬だ。山道に肥えた牛が1200頭待たせてあって、チヌーク*5にはあさって積み込むための貨車が用意されることになってる。絶対にあの浅瀬を渡ってやるさ──もし俺たちを邪魔するようなら、逃げ出す羽目になるのは土着の農夫どものほうだろうぜ」
「『もし』なんてことはないから。誰かがいつも見張っていて、谷の全域に警告を出す準備が出来ているの。作物はほとんど収穫済みで、家畜が殺到しても張り巡らされた柵が待ってるだけ」
ハナハンはがっしりした肩を向けて指し示した。「あそこまで郡道が通っているじゃないか。それに馬鹿なモルモン教徒ども*6がどれだけ立ちふさがろうが、ビッグ・A. J.は出し抜かれるような連中じゃないぜ」
コンラッド嬢は真剣に同情を寄せる眼差しで彼を見つめた。「確かにそこの通り道は郡道だけれども、浅瀬はマッコイ未亡人が所有する半マイル四方の真っ只中にあるの」
ハナハンがまぶたを伏せたことでコンラッド嬢は悟った。マッコイ未亡人が40人いたとしても、ハッピーハート牧場のハナハンを怖気づかせることは出来ないだろうと。
「どうやって渡るつもりなの?」と彼女は尋ねたが、危ぶんでいるのではなく、彼なら何とかして渡ってみせるだろうと思ってのことだった。
「さあね」ハナハンは陽気に言った。「でもな、水なしで40マイルの長丁場なんて無理に決まってんだよ。未亡人の居坐る浅瀬を迂回してロングホーン牛の大群を連れ回すなんて御免だぜ。それに貨車があさって到着することになってんだ。だから俺たちビッグ・A. J.もそれに間に合わせなきゃならん。ジミー・ナウス*7が覚悟を決めた時にはたいてい上手くいくんだよ」
コンラッド嬢は物思いに耽りつつ、平穏な谷を見下ろした。
「あの人たちは牧畜業者をひどく憎んでるから」と彼女は言った。
「それに喧嘩することが何より好きなの、ダンスを除けばね」
「そりゃ俺のことだ」ハナハンが応じた。 「この谷でダンスパーティーでもあれば良かったんだけど──」とつぶやく彼女。
「だったら」ハナハンが聞いた。「ダンスパーティーを開けばいいじゃないか」
「今夜? 急な話だし、レイジー街道まで行かなければ音楽の演奏なんて期待できないし──それにあそこの演奏お粗末だから」
「そうか」と応えたハナハンは熱意を込めて続けた。「もしあんたがこの辺りの田舎者たちを寄せ集めてくれるなら、演奏のほうは俺が手配しよう。俺の仲間にはギターとマンドリンを雷みたいにかき鳴らして弾く奴らがいるんだ」
コンラッド嬢の瞳がきらめいた。ハナハンはいっそう深くまぶたを伏せた。
「準備が間に合うかな?」彼の声と目つきは大胆さを帯びていた。
「多分ね。今日は土曜でしょ? まだ時間も早いし。無名の演奏家が事前の告知もなくこの谷に来演するための納得のいく事情をひねり出すことが出来れば──あなたの仲間って身元が知られてはいないでしょうね?」
「それは大丈夫だ。ゆうべ俺と仲間たちはここまで来て、下のほうにある屋敷のことで話をしたんだよ。地元の住民とな」ハナハンは鞍の上で体をずらして楽な姿勢を取り、思案に没頭した。ハナハンがこうする時は速やかに結果が出て、妨げとなる物はチヌークに降る雪のように溶けてしまうのが常だった。
「こうしよう! 俺はあんたのいとこのジャックだ」と、三分ほどのちに彼はひらめいた。
コンラッド嬢は目を見開いて疑わしげに微笑んだ。
「ビートルがもう一人のいとこで、パロット・ティムは俺とビートルの手伝いで来てるってことにしよう。俺と仲間たちは牧場を探して地方を駆け回っていて──ハナハンは苦笑いをしてそう言った──それであんたの寄宿先を訪れるとする。そこであんたがさりげなく俺たちにしばらく留まるよう頼むってのはどうだ? そのあとで近所の住民をちょっとした親睦目的のダンスに誘えばいいじゃないか──どうだい? 自然な段取りだと思わないか?」
コンラッド嬢はいまだ疑わしげだった。「むしろ厄介なことになりそうね」と彼女は不平を訴えた。「いきなりいとこが二人いるってことにして、そのうちのひとりは博打も同然の大芝居に──ていうか大災厄に──おかしなくらい乗り気になってて、ましてもうひとりは今まで聞いたこともない他人でしょう? それにそのビートルっていう名前。わたしカブトムシ*8とかの昆虫って」彼女は憂鬱そうに締めくくった。「特に苦手なの」
「あいつのことなら大丈夫」ハナハンは請け負った。「きっと気に入るはずさ、みんなそうだからな。あいつはえくぼがあって青い瞳で、声がか細くて、ただ見た目が子供っぽいってだけなんだよ。カウボーイの格好をした女の子と見間違えても無理はないだろうな。それでもあいつの才能が本物だってことは確かなんだ。野生の馬を乗りこなすことだって出来るんだぜ。チャプス*9を穿いたことのあるチビッ子であいつに敵う奴なんていないさ。あいつならやってくれる──俺はありとあらゆる手を尽くしてビートルを支援するぜ」
コンラッド嬢は彼を訝しげに横目で見やった。「その人はお似合いの仕事をやってくれるんでしょう。あなたたちカウボーイがそう言うんならね。わたしはマッコイさんと一緒に食事をいただくことにしましょう」
「そりゃお気の毒だ!」ハナハンは本能的に鞍の上で後ずさりした。マッコイ未亡人は華々しい経歴の持ち主で、その名はこの地方で広く知れ渡っているのだった。
「夕食に間に合うように来てもらえる?」と彼女は提案した。
ハナハンは太陽に向けた鼻に皺を寄せて考えた。「俺と仲間たちがその夕食にありつける見込みはあるのかな? ビートルはいつもの時間にメシが喰えなくなるような不都合はお断りなんだよな」
コンラッド嬢は彼を安心させた。マッコイ未亡人はこの渓谷で最も優れた料理人との名声を博していて、腹を空かせた旅人の来訪を何より喜ぶのだった。
「ただ一つの懸念は」コンラッド嬢が付け加えた。「あなたたちカウボーイが食べ過ぎて急性の消化不良を起こすかもしれないってことでしょうね」
ハナハンの表情が感嘆の色合いを帯びた。「あんたとパロットが組めば暴言を吐いて人の注目を集めるいいペアになれるだろう。あいつが持って生まれついた言葉を駆使すれば寝てるプレーリードッグ*10を叩き起こしてビビらせてやることだって出来るんだぜ」
コンラッド嬢は唇を閉じた。「わたしに何の関係があるのかさっぱりわからないんだけど──」
「褒めてるのさ。それともコンビ名を先に考えたほうが良かったかな? 言っとくが、パロットは学のある奴なんだぜ。プリンストン *11だったか、どこかの知識を生産する工場に籍を置いているあいだ、放牧に出されることもなく敷地内で育てられたんだ。とにかく、あいつに押された学業修了の焼き印はそこら辺の牛に押すやつと同じくらい上等なのさ。年に一度くらいしか口を聞かなくて──だからみんなからパロット*12って呼ばれてるんだが──いったん酔いが回ればよく通る声でしゃべるんだよ。それに歌だって歌える。俺だったら夜中この辺りで最高のショーを観に行くより、見張りの番をしながらあいつの歌に耳を傾けるほうを選ぶぜ。機会があったら、あんたのために一曲歌わせてやるよ」
「そうだ、うちにマンドリンがあったっけ」と思い出したようにコンラッド嬢が言った。「それにマッコイさんの家にはバドが持ってる立派なギターがあるってこと忘れてた。誕生日にマッコイさんがプレゼントしたギターで、バドは同じ弦を続けてはじくことも出来ないくらい下手だっていうのに、大きな赤いリボンを蝶結びにして付けてソファの上に吊るしてるんですって。マッコイさんが言うには、そのほうが『洒落てる』からって。バドは気性の激しいボクサーみたいなタイプで、それが弟のパッツィーにも影響しているの。バドが暴力に訴えるときは、パッツィーのほうは恐喝を受け持つって感じで。パッツィーについては心配する必要ないでしょうけど──バドから目を離しちゃだめ」
ハナハンは再びまぶたを伏せて、独り静かに微笑んだ。「その息子たちが俺のそばから離れないよう立ち回ることにするよ」とハナハンは約束した。「それから、あんたには大いに感謝してる。ああ、そうだった! ビートルは闇夜に尾を引くほうき星みたいに噂をまき散らしている奴なんで、何か別の名前で呼んだ方がいいな。よし、あいつのことはエディーって呼ぶことにしてくれ。あいつはいかにも『エディー*13』って感じの見た目をしてるんだが、たぶん本人にそう言ったら歯ぎしりするだろうな。俺たちとあんたは正午に合流することにしよう。ビッグ・A. J.はあんたの救いの手を大いに感謝することになるだろうぜ、コンラッドさん。それから実を言うと、素敵なご婦人向けの小柄でとびきり上等の斑毛の馬が一頭あるんだ。もしこの計画が成功したら、まちがいなくその後はご婦人と運命を共にすることになるはずなんだ。何としてでも成功させなきゃならないってことさ。もしチヌークへの到着が遅れようもんなら、ビッグ・A. J.は必死になって貨車の手配に奔走する羽目になるだろうよ。今年の秋は貨車が大幅に不足していて調達が難しいからな。それから──なあ、手助けしてくれるあんたのことを俺がどう思っているかわかってるだろう?」
コンラッド嬢は彼の視線に気づいて頬を紅く染めた。「わたしはただ助けになれるのが嬉しいだけ。もうペリシテの人びとにすっかり情が移ってしまったみたい」
口にすることはためらったものの、ハナハンは眼で多くのことを語っていた。やがて彼は事態が急を要していることを思い出した。
「正午までに仲間をイスラエルの野営地に連れてくとすれば、もう出発しなけりゃならないな。じゃあまた後で、コンラッドさん」
コンラッド嬢は彼の姿が見えなくなるまで見送った。眼には優しげな光が灯っていた。チントが蹄を高く跳ね上げて走り去ったあとに砂煙が収まり、蹄の音が信仰を持って耳を傾ける者*14にしか聞こえないほど微かになった時、彼女は振り返り、山の岩場のうねり曲がる道をハミングしながら引き返して行った。
ビートルは籐細工の大きなロッキングチェアに腰掛け、子供のように人を信頼しきった眼差しでマッコイ未亡人のマゼンタ色を帯びた容貌を眺めた。料理の腕前についての率直な賞賛と、無邪気で好感の持てる表情がすでに彼女を大いに喜ばせていたのだった。
「あなた従姉のジェニーにそっくりね」マッコイ未亡人が意気込んでそう言うと、ビートルはキューピッドの弓の形をした唇を曲げて微笑んだ。
「ジェニーの髪は僕より色が濃いですよ」彼ははにかみつつも、コンラッド嬢の濃い赤毛に目をやって異論をはさんだ。もしビートルが見た目同様に内気な男だったならば、見知らぬ若い女性をファーストネームで呼ぶことに躊躇していたことだろう、たとえそれが彼の演じる芝居の一部だったとしても。
「智天使ケルビムみたいに本物の金髪なのはあなたのほうよ」マッコイ夫人は断言した。「ジェニーの髪はもっと赤みがかってるわね」
ちょうどその時ジェニーの頬が「赤みがかった」ので、ハナハンは背もたれの堅いソファの上で喉を鳴らし、マッコイ夫人の今の言い回しを拝借して将来自分で使う時のために記憶に留めておくことにした。
「演奏してよ、エディー」とコンラッド嬢が意地悪く名前の部分を強調して要求してきたのでビートルは内心動揺した。バド・マッコイのギターを持って来た彼女に向かって、ビートルはたしなめるように眉を下げ、ギターをパロット・ティムに手渡した。コンラッド嬢は誰がどの楽器を担当するのか確認し忘れていたのだった。
「君のマンドリンを持って来てくれたら試しに弾いてあげるよ、ジェニー」とビートルが言った。ハナハンが連れの若い男たちについて説明してくれたことを思い出して、コンラッド嬢は慌ててマンドリンを取りに行った。
パロット・ティムはいつもの習性で一言も口を聞かなかった。それでもギターのチューニングを正確に済ませると、ビートルが試し弾きでかき鳴らす断片的なフレーズに耳を傾け、そのハーモニーにうなずいた。その後はただひたすら甘美な音色が鳴り響くのみだった。マッコイ未亡人は恍惚に凝り固まった顔に笑みを浮かべた。そこへバド・マッコイがやって来た。眉毛が黒く、首のずんぐりした容姿で、脇にパッツィーを従えて出入り口に立ったまま音楽に聴き入った。
「見事な演奏だったわね!」演奏が止むと、息せき切って未亡人が叫んだ。
「わたし踊りたくなっちゃった」衝動に駆られたかのごとく、狡猾に口走ったコンラッド嬢は、バドとパッツィーのほうへ横目で微笑みかけた。「さっきのワルツをもう一回やってよ、エディー。ここにいい男がいるんだもの」彼女は立ち上がってバド・マッコイに向き合った。両の眼で挑発していた。
コンラッド嬢の口調の意味するところを汲んで、ビートルは先ほどからの反発を抑え込み、再び「波濤を越えて*15」の魅惑的な小節へと取り掛かった。コンラッド嬢から寄せられた好意のもたらす常ならぬ喜びに目をしばたたかせながらも、バドは彼女へ寄り添って腰に腕を回し、不器用にワルツを踊った。部屋中のありとあらゆる敷物が足蹴にされてだらしなく波打つまで踊り続けたのだった。
ダンスの催す興奮がバドの体内で血管を伝って高まりつつあるのを感じたコンラッド嬢は、息を切らしながらハナハンの隣に腰を下ろした。
「勝利は目前だぜ」密かに彼がそうささやくと、コンラッド嬢は勝ち誇るように長い睫毛を伏せて応じた。おおむねのところ、かなり達者に仕事をやってのけたと感じていた。
コンラッド嬢が未練ありげに微笑んでみせると、バドの普段のしかめ面は和らいだ。「今夜、俺たちでダンスパーティーを開いてみるのもいいんじゃないかと思うんだが。あんたたち大して急いじゃいないだろう?」誰がリーダーなのかを暗に悟ったバドの眼はハナハンに向けられた。
ハナハンは計略のもと、煙草の葉の入れ物の上にうつむきながらためらってみせた。「出発しなけりゃならないんだよ、どうあってもな」男なら誰もが時折したがるのと同様、人を誘惑してみせる快感に耽りつつも、彼は交渉に取り掛かった。「俺たちは最近はやりの流儀でジェニーを訪問する以上のことは考えてなかったんだ」ハナハンが指先で煙草の巻紙をいじくって小さな筒形にするあいだ、コンラッド嬢をファーストネームで呼んだことにときめいて、彼の心臓は激しく鼓動した。
「それがどうしたっていうのよ? 人生は一度きりでしょ、それに」と未亡人が説得にかかった。「あなたがたに留まってもらえたならばとても光栄なこと。きっと最高の晩をお過ごしになれるでしょう。ジェニーだってあの独り身の──」
ハナハンは譲歩しそうな気配を見せ、共謀中の仲間たちを問いただすように見つめた。その視線に応えるように、ビートルはハナハンの意向に従う旨を簡潔に述べた。コンラッド嬢はといえば、ハナハンにもたれ掛かって可愛らしくお願いしてみせ、全身の血が沸くほどのかつてない興奮へと彼をいざなった。ほとんど誘惑に屈して、かねてからの計画を実行出来なくなるんじゃないかと危ぶませたほどだった。
夜更けまでは滞在することにしようとハナハンは約束した。そののちチヌークへ向けて夜通しの旅路につくことになるが、そこが自分たちの目的地であるとも付け加えた。差し障りのない限り本当のことを言ってしまうのがハナハンのいつものやり方だった。
コンラッド嬢は早速、未亡人とともに部屋を出てケーキの支度などを手伝うことになった。バドとパッツィーは馬に飛び乗って近隣の住民に告知をするため出かけて行った。「先遣隊*16」は正面入口の踏み段に腰を下ろし、キッチンのふたりを楽しませるために美しい旋律を奏でつつ、煙草をたびたび吸って時が過ぎるのを待った。
日差しが衰え、太陽が丘の向こうへ隠れると、風もまた衰え、静まった。ゆっくりと漂う雲は月を覆い隠し、闇に包まれた静かな夜のきざしを見せた。
「馬にじゅうぶん喰わせといたほうがいいぜ」とビートルがハナハンに言った。乗って来た馬に餌をやろうと柵囲いまで連れ立ってやって来たのは、雲向きが怪しくなって急に逃げ出す必要に迫られたときに備えて馬に鞍を付けておくためでもあった。
ハナハンは踊り手たちへの「コール*17」を受け持つことになっていた。
「肝心なことはな」ビートルは続けた。「ダブルエルボーとパートナーにシャッセを何回もやるってことだ。それとコーナーにスウィング*18もな。8時を回ったらコンラッドさんに衣装を着てもらうんだ。谷の住民が許容する限界の際どいやつをさ。夜のうちに評判が派手に広まるだろうぜ」
ハナハンの歯が夕闇に白く浮かんで見えた。手袋をはめた手を伸ばして可愛がるようにビートルの肩を叩いた。
「了解だ、金髪坊や」と優しくささやいた。
ビートルは動揺を抑えきれずに恥ずかしがり、力いっぱい罵った。その時の顔は特に智天使ケルビムに似てはいなかった。
「クソっ、あのババアのせいで」と吐き捨て、機嫌を損ねて屋内へ戻ったが、その不機嫌も5分と続かなかった。
午後8時には谷あいに住む男も女も子供たちも皆、マッコイ未亡人の屋敷に集い、期待に胸を膨らませてダンスパーティーの開始を待ちかねていた。
午後9時にはクルクルと回って踊る人影が広いリビングルームに満ち溢れ、その人波はキッチンにまで及んでいた。あいだの出入り口に立っていたハナハンは両方の部屋へ向けて同時にコールを出していた。ビートルとパロット・ティムはテーブルを出入り口近くに寄せ、その上にイスを載せて腰掛け、踊り手たちを見下ろしつつ、落ち着いた顔つきで慌ただしく楽器を弾きながらも、差し迫った危機を感じて心は浮足立っていた。
遥か遠く離れた段状の斜面には、ゆっくりと動くしみのような影が着実に谷の麓へと降りつつあった。おぼろげに縁どられた人影があちこちで馬を進ませ、谷底の境界線をチラチラと瞬かせていた。広がった数多の鼻孔から吐かれる熱い息が静寂の中、神秘的に立ち昇り、乾いた芝草のはじける微かな音が、平原の芝地を踏みしめる5000の蹄*19の重く鈍い足音と混じりあった。
午後10時になると、ビートルはマンドリンを置いてコートのポケットから赤い箱に入ったハーモニカを取り出し、ハナハンに何かささやきながら手渡した。そして自分はこっそり屋外へ抜け出して、ひんやりとした闇のほうへ向けて聞き耳を立てた。
甲高くて鋭い、甘いメロディーのマンドリンが聴衆の喧騒を凌ぐほどに鳴り響いた頃には、ハナハンはもう息を切らしていた。ビートルの頬には赤みがかった斑点が見え、瞳は危険な状態の時だけ帯びる濃い紫に変色していた。目ざといパロット・ティムがその兆候に気がつき、ビートルのほうへ体を寄せてもの静かな灰色の眼で問いただした。
ビートルは問いかけに答える代わりに、えくぼのある顎を半インチ足らず下げてみせた。それからハナハンのほうを向いた。
「さあ、派手にかましてやれ」と声をひそめてビートルが促す。「激しいやつを──最高に激しくて長いやつをさ」
ハナハンは退出してキッチンへ行き、くたびれた喉に新鮮な湧き水を1クォート*20近く流し込み、それから仕事に──その晩の本当の仕事をやりに戻って行った。
マッコイ未亡人は白髪頭の髪の房が目に垂れかかるほど踊り続けて、今にも脳卒中を起こしそうな様子だったが、ハナハンは容赦なかった。コンラッド嬢は頬を紅潮させ、乱れた着こなしのまま恨めしそうにハナハンのほうへ目を向けたが、彼の半ば閉じたまぶたと落ち着き払った眉の意味するものを悟り、責め立てるどころか逆に微笑んで鼓舞してみせた。風に舞う木の葉のように旋回しながら微笑んだのは延々と続くリフレインの真っ只中だった。「バランス、スウィング!──アレマン・レフト、パートナーにシャッセ、バランス──スウィング! アレマン・レフト、右手をパートナーに、それからダブル・エルボーでグランド・ライト・アンド・レフト──バランス、スウィング!*21」
人を信じて疑わないチキータの土壌に住まうこの農夫たちに課せられたダンスの激しさは途方もないものだった。一組の踊り手のペアが疲労困憊して最寄りの座席までたどり着いたときには、とうとうマンドリンの絃が切れ、交換のために演奏を中止することとなった。その時、ハナハンがしわがれた声で待ちかねていた号令をかけた。「オール・プロムネード!──どの向きに行進するかはわかってんだろうが、どこへ行こうが俺は気にしないぜ!」
と言いながらも、彼にとって気にせざるを得ない出来事が起こった。心中に不安がよぎったのは、長い体躯を扉の枠にもたれ掛けさせ、両手をポケットに深く突っ込んで、自然な姿勢でくつろいでいた時のことだった。よろめきながら夜の闇へ向かって歩いていくバド・マッコイの姿を目撃したのだった。
ダンスのパートナーがコンラッド嬢だったことを思えば、バドの頭がクラクラしていたのは、延々と続いた目のくらむようなスウィングだけが原因ではなかった。彼はいまだに痺れるような興奮を肩に感じることが出来るはずだ。何しろ、あの息を呑むような最後の旋回の最中に、コンラッド嬢はその赤みがかった金髪の頭をほんの一瞬バドの肩に載せて休めたのだから。
ビートルは切れた絃の上に覆いかぶさるように頭を垂れた。外から見た限りでは、絃の修繕に没頭しているようだった。ハナハンはビートルの耳元に口を寄せた。
「お前が外に出ていた時、あっちの仲間はどこまで進んでたんだ?」と用心しながらささやいた。
「ちょうどそこの畑に入って来るところだったぜ。今頃はほとんど通り抜けてるはずだ。なあ、さっきのハーモニカを吹いててくれねえか? 谷の住民を屋内に引きつけておかなきゃならねえ」
「バド・マッコイがいま外に出てんだよ」
「あのクソ野郎、なんだってこんな時に!」と悪態をついた智天使ケルビムは、イスの上で不安気にそわそわした。「雲行きが怪しくなってきたってことだな。あいつが──」
バド・マッコイの声が吼える闘牛のように部屋中にとどろいた。「おい、野郎ども! 浅瀬に牛の群れがいるぞ!」
直後、部屋じゅうが蜂の巣をつついたかのように騒然となった。大勢が蜂の大群のようにドアに殺到したのでかえって退出に手間取ることになった。マッコイ未亡人の怒号は谷の住民のどよめきを凌駕して響き渡った。
先遣隊はキッチンまでたどり着き、裏口から脱出して馬小屋へ突進した。その後に続いたのは、憎悪をつのらせ悪態をつく「イスラエルの民」の集団であり、バドとパッツィーがその先頭にいた。
遠方の暗闇から響いてくるのは、浅瀬を渡る何頭もの動物が立てる水しぶきの音、それに加えて遥か先で坂道を上る大群の混然とした鳴き声だった。
隊長の大きな叫び声が聞こえたかと思うと、続いてはっきりとした口調で命令が下され、真っ暗な闇を通って響き渡った。「牛を急がせろ──農夫どもがやって来るぞ!」
「ここで10分足止めすることさえ出来ればな──」ハナハンは気遣わしげにうめいた。
「奴らをしばらく釘付けにしとく罠を俺が仕掛けといたぜ」ビートルが息を切らしながら慎重に声をひそめて言った。
バド・マッコイが手近にいた馬までたどりつき、鐙をつかんだが、それはデイブ・ハドリーの馬だった。馬にまたがって星空を背にした黒い影は一息置いて鞍から降り、うろたえた。
「鞍に何をしやがった?」彼は誰ともなく尋ねた。答える者はいなかった。ほかの者たちもあとに続き、形は違えど同じ問いかけを繰り返した。馬たちは抗議するかのように鼻を鳴らし、乗り手を拒んでうろうろ歩き回り始めた。
混乱の中、何者かが突然笑い出した──悪戯をして子供っぽくはしゃぐような、ことの成り行きを意に介さない笑い声だった。バドは激怒してその声に振り向いた。
「笑ってんじゃねえ! 牛飼いどもとグルになってる奴がいるはずだ。鞍を全部後ろ前に付け替えたのは誰だ? お前か? お人形さんみてえな顔してクスクス笑いやがって、この糞ガキが!」声は唸る動物さながらだった。バドは手を握りしめたかと思うと、不気味にもそれを引っ込めた。
ビートルは笑うのをやめ、その細身の体を伸ばした。彼のこぶしがドスンと音を立てると、不意を突かれたイスラエルの民のリーダーを殴り倒していた。
「正々堂々と相手をしてやれ、ビートル!」ハナハンが背後から叫んだ。「お前なら勝てるさ」
パッツィー・マッコイは物陰で地団太を踏みつつ、異様な脅しの文句の数々をわめき立てていたが、それも長い腕を悠々と伸ばしたパロット・ティムに襟をつかまれ荒々しく揺さぶられるまでのことだった。その時、ハナハンが馬を解き放とうとしているのを誰かが見咎めたが、あとはただ腕と脚と品の悪い言葉が柵囲い*22の中を飛び交うだけになった。
勃発中の戦闘への参加を差し控え、馬から鞍を取り外すことに甘んじる賢い者たち、すなわちビートルが前もって仕組んだ妨害策によってホーン*23が後方へ鉤状に向けられていた鞍を、生産者の意図した通りの自然な向きに付け替える作業に徹する者たちもいた。そのせいでかえって、どの馬も例外なく神経過敏を悪化させることとなったので作業は捗ることがなかった。
パロット・ティムは着ていたコートをなくしたものの、もがきまわってなんとか手足が自由になった。そこで、のたくる人間の積み上がった山の中からビートルを引き当てるまで手探りの捜索を続けた。いい頃合いに助けが来たことで表に引き出されたこの若者は、意外にもさほど疲労していなかった。ビートルは山積みになった農夫たちを満足気に眺め、こちらが自由の身になったことに気づいていないと見て取ったが、それでもかまわず、見境なしに力いっぱいの殴り合いを続けることにした。
こっぴどくやられはしたものの、意気揚々とした先遣隊の三人は二分後、平穏を取り戻したチキータの川で水しぶきを上げながら進んで行った。そして向こう岸で足を停め、マッコイ家の柵囲いから聞こえてくる騒ぎの音にしばし耳を傾けたのち、馬を走らせて去って行った。
「もしジミー・ナウスが今夜のお礼として、ジェニー・コンラッドにあの斑毛の小馬を譲ることに同意しないなら、何か埋め合わせをしなけりゃならないだろうな」と、丘を登りながらハナハンが言った。「お前ならどうするよ? 金髪坊や」
「おい、その呼び方やめろ!」とビートルが怒鳴った。「バド・マッコイには二度と『お人形さんみたいな顔』なんて言わせねえぞ。言い終わる前に殴り倒してやるぜ」
パロット・ティムはあごが下がって首に垂れ掛かったまま10分ほど馬を走らせた。そののち振り向いて、星空の下で微かにきらめくチキータ渓谷を眺めた。
「ペリシテ人の軍隊はイスラエルを迎え撃つべく陣容を整えた。そして彼らが参戦するとイスラエルはペリシテ人の前に打ち負かされた……そしてイスラエルの人びとは衣を引き裂き、打ち負かされたことに大声で泣いて悲しんだ!*24」
「言っとくけど、あいつら俺のコートもビリビリに引き裂いたんだぜ」とビートルが付け加えた。
<了>
訳注:
のちに語られるように、主人公ハナハンはこの「チキータ」からモンタナ州のチヌーク市までの牛の輸送を二日以内に終わらせる計画を立てている。「チキータ」と呼ばれる場所はモンタナ州の中には見当たらないが、コロラド州には Mount Chiquita がある。しかし、仮にこの「チキータ」がコロラド州北端だとして計算しても、チヌーク市までは700マイル以上離れているので、二日間で牛の群れを移動させるのは不可能。したがってこの「チキータ」はモンタナ州のどこかに設定された架空の地名だろう↩
チキータ渓谷の農夫たちと牧牛業者たちとの対立関係を、古代におけるイスラエル人とペリシテ人の争いになぞらえている。訳注6番も参照されたい↩
ハッピーハート牧場で働くカウボーイのうち、今回のような牛の輸送に従事するカウボーイのチームに付けられた内輪での呼び名だろう↩
暗殺された第25代の大統領ウィリアム・マッキンリーとその跡を継いだセオドア・ルーズベルトの名前を組み合わせたもの。時代はだいぶ後になるが、エラ・フィッツジェラルドによって1938年に歌われた F.D.R. Jones(Franklin D. Roosevelt Jones) という歌があって、当時のアフリカ系アメリカ人がこぞって時の大統領の名前を子供につけた世相を風刺したものとされている。なお、ジョーンズは単にありふれたラストネームとして付けられただけで、特定の個人を指しているわけではない。このウィリアム・マッキンリー・ルーズベルト・ジョーンズも同様の発想に基づいて名付けられたものだと考えてよければ、この人物は熱烈な愛国者、もしくは共和党支持者の親から生まれた子供ということになる。ただし、セオドア・ルーズベルトが広く名を馳せるのは早くても米西戦争で活躍した1898年だろう。したがって、その直後に生まれた子供であっても、この作品が発表された1905年の時点で7歳にしかならない。訳注6番も参照されたい。参照:F.D.R. Jones - Wikipedia ↩
モンタナ州ブレイン郡のチヌーク市↩
モルモン教徒の伝統では自らを「イスラエルの民」とみなす考えがあるらしい。この小説でたびたび、カウボーイをペリシテ人に、チキータ渓谷の農夫たちをイスラエル人に例える表現が見られるのは、農夫たちがモルモン教徒の入植者だからということになる。参照:Israel, the Mormons and the Land | Religious Studies Center
また、チキータ渓谷の住民たちがモルモン教徒からなることをふまえると、先にコンラッド嬢の語った「ウィリアム・マッキンリー・ルーズベルト・ジョーンズ」にまつわる出来事の背景が読み取れる。まず、「牛の大群を率いた一行が道を下りて来た」のが「日曜日の午後」だったということは、すなわち警戒が手薄になっているかもしれない日曜日を狙ったということじゃないだろうか。キリスト教の一派であるモルモン教の信者ならば日曜日に教会へ行くのは自然なことであり、チキータ渓谷の住民たちがみな出払っているかもしれないと淡い期待を抱くのも納得のいくところだ。ウィリアム・マッキンリー・ルーズベルト・ジョーンズは訳注4番で説明した通り、7歳以下の幼児だと推測される。このウィリアム・マッキンリー・ルーズベルト・ジョーンズが自転車に乗っていた、つまり教会に行っていなかったのはまだ洗礼前の幼児だからということだろう。乗っていたのが自転車だったのは、まだ馬に乗れるほど成長していないからに過ぎず、本人は大人たちが教会へ行っているあいだ、自転車に乗ってパトロールをしていたということなんじゃないだろうか。だからこそ、この幼児はチキータ渓谷にとっての敵対勢力である「牛の大群を率いた一行」に遭遇しても、驚いて逃げるどころか逆に追いかけて行ったんだろう。「牛の大群を率いた一行」は自転車に乗った幼児を見て驚いて逃げだしたのではなく、かまわず川の浅瀬を目指して牛を急がせたんだろう。コンラッド嬢の説明が「未亡人のマッコイさんのところの庭」で終わっているのは、つまり浅瀬を含む広い一帯を所有しているマッコイ家の家人などが飛び出して来て「牛の大群を率いた一行」を追い払った、ということなんじゃないだろうか↩
牛の群れを先頭で率いる隊長か、もしくはハッピーハート牧場の牧場主を指しているものと思われる↩
beetle(ビートル)はカブトムシやテントウムシなどの甲虫の総称↩
足を保護する目的でカウボーイがズボンの上から着用する革製の覆い↩
ここでなぜプレーリードッグが引き合いに出されるのかという疑問に対して参考になる一節が著者の別の小説 Her Prairie Knight にある。著者はプレーリードッグを単純に可愛らしい小動物だとは考えていなかったようで、第11章において主人公ベアトリスに、プレーリードッグのことを「最もずうずうしくて、やかましい生き物」だと述べさせている↩
プリンストン大学のこと。1746年創立の名門↩
parrot はオウムの意。オウムのなかには人の声を聞かなければろくに鳴かないものもいる↩
エディーという名前が何を指しているのか結論としてはよくわからないが、一つの説を提唱しておきたい。この小説がパルプ雑誌に発表された1905年の時点ですでにアメリカで名声を博していた人物として、腹話術師のハリー・レスター(Harry Lester)がいる。彼は Frank Byron, Jr.という名前の付いた人形で腹話術を演じるとともに、のちに Broadway Eddie という別の人形も使用している。ハナハンが「エディー」という名前を思いついたとき、このレスターの二体目の腹話術の人形のことを念頭に置いていたんじゃないだろうか。この小説の後の場面でバド・マッコイがビートルを前にして doll-face という言葉を使って挑発していることもこの説を保証するもののように思える。また、この小説よりあとに発表されたものではあるけれども、1906年の著者の別の小説 Her Prairie Knight には主人公ベアトリスが腹話術でもってガラガラヘビの鳴く声を真似てみせる場面があって、著者の腹話術に対する関心のほどを覗わせて興味深い。ただし、この説には大きな弱点がある。実はYoutubeにある動画でハリー・レスター本人が腹話術の実演中に自ら「近頃フランクは引退せざるをえなくなって、それでブロードウェイ・エディという新しい人形を手に入れた」と語っている。Wikipedia の The Great Lester のページによればこのテレビ放送は1951年のものらしい。したがって、ブロードウェイ・エディが登場した時期を1905年以前にまで遡るとみなすのは無理があると言わざるを得ない。それでも捨ておくには惜しい説だと思える
参照:Vent Haven Museum--Gallery 4, The Great Lester | WXPR, The Great Lester Ventriloquist Extrordanaire - YouTube, The Great Lester - Wikipedia ↩
マルコの福音書4-23やルカの福音書8-8などに見られる「聴く耳ある者は聴くべし」というイエスの言葉をふまえた表現だと思われる↩
英語では Over the Waves と呼ばれる非常に人気のあったワルツ曲↩
牛の群れを率いるカウボーイたちとは別行動で、マッコイ未亡人の屋敷に潜入しているハナハン、ビートル、パロット・ティムの三人のこと↩
スクエアダンスのコールのこと。スクエアダンスでは、コーラーと呼ばれる者が、曲に合わせて次つぎと踊り手たちにステップの指示を出し、踊り手たちはその指示に従って臨機応変にステップを変えることになっている。その一つ一つのステップの指示が「コール」↩
「ダブルエルボー」「パートナーにシャッセ」「コーナーにスウィング」のいずれもスクエアダンスのコール。スクエアダンスは時代や地域によって実際にコールの指示するステップの内容が異なっていて、正確にこの時代のモンタナで行われたスクエアダンスのコールが何を指示していたのかはよくわからない↩
ハナハンの発言にあったように、輸送を担うビッグ・A.J.が引き連れている牛は1200頭。1200頭の牛の蹄は4800。5000から4800を引いた残りの200の蹄が、牛の群れを誘導するカウボーイたちの乗る馬50頭のものだというなら計算が合うことになる。しかし、そこまで大勢のカウボーイを動員しているとは考えられない。「約5000の蹄」ということではないか。参照:Cattle drives in the United States - Wikipedia↩
約1リットル↩
バランス、スウィングに始まるカタカナ語はすべてスクエアダンスのコール。正確なところはわからないが、少なくとも「スウィング」は旋回を伴うステップ、「ダブルエルボー」は左右の肘を交互にパートナーと組んで行うステップのようだ↩
場面が馬小屋からいつの間にか柵囲いへと変わっている。これは仕切りがあって狭く暗い馬小屋から、隣接する柵囲いへ自然に流れ出たということだろう↩
鞍の前方に据えられた突起で、投げ縄をするときにロープの端を巻き付けたり、あるいは乗り手がバランスを取るために手でつかむなどさまざまな用途に用いられる。通常、前方へ鉤状に曲がった形態をしている↩
「ペリシテ人の軍隊は」から「打ち負かされた」までは旧約聖書のサムエル記第一4:2からの引用。そのあとの、「そしてイスラエルの人びとは衣を引き裂き、打ち負かされたことに大声で泣いて悲しんだ!」というのは聖書の記述とは異なる創作。ペリシテ人は最終的にはイスラエルに敗北することになる。着ている衣を自ら引き裂くというのは、旧約聖書にたびたび出て来る激しい悲しみや嘆きを表す表現↩
原文へのリンク:Smith's Magazine 1905-05: Vol 1 Iss 2 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive