
赤いシャツを着た幽霊
著者:B. M. バウワー
訳者:望月ともたり
本来ならこのお話を始める前に、あらかじめ読者の方にお断りをしておくことが適切なんじゃないかと思います。まず最初に、自分は幽霊の存在を信じたことなどありませんといったように。幽霊の話をする場合って普通はそういうふうに始めるものだと思うんです。それに、これからお話しすることが事実そのものだということも本来なら言っておくべきなんじゃないでしょうか。でもわたしはこの話をそういうふうに始めたくはないんです。実を言うと、あなた方にわたしの話を信じてもらえるかどうかなんてあまり気にならないし、それにわたしは幽霊の存在をずっと信じていたんです。少なくとも、幽霊というものがサンタクロースよりは信憑性のある存在でいてほしかったし、願わくばいつの日かお目にかかりたいと思っていました。
ジェーンおばさんは──本当はおばさんのことから話し始めるのも嫌なんですが……最初に何か仕出かすのはいつもおばさんです。わたしが思い出せる限り、これまでの人生でずっとそうなんです。だからジェーンおばさんのことから始めるわけにはいきません。わたしがこのお話を書いたことさえおばさんに知られたくありません。きっと変人呼ばわりされるだけでしょう。
すべてはこれからお話しするような形で始まったんです。それでも心得ておいてください。あなたがたがわたしの話を信じるかどうかなんて気にしません。実際にあったことなんです。あなたがたが信じても信じなくても、あれが実際に起こった事実だということに何の変わりもありません。それにわたしにはあの幽霊がこの上なく愛しくて──いえ、やっぱり最初から順を追ってお話しすることにしましょう。
あの日の夕暮れ、わたしたちは小さなヨットで湖を渡ったんですが、その船には「ザ・ニュー・ウーマン*1」という名前がありました。ジャックが名前を付けたんですけど、そのうち納得される方もいらっしゃるかもしれません。あの船はむらっ気がひどくて、風が吹くときは向きを保つのに鼻先*2をつかんでやる男手が必要なんだそうです。ジャックの嫌味ったらしい言い草ときたらまったく。
わたしたちの一行は6人だけでした。ジェーンおばさんにメーベル、いとこのジャック、ゴールドバーン教授、そしてクリフォード・ウィルトン。わたしとクリフォードはとても仲の良い時期だったとは言えませんね。ジェーンおばさんには知られてませんでしたが、わたしとクリフォードは婚約していました。それでも、もうすべてが終わっていたんです。わたしの可愛いルビーの指輪は今や水の底。そう、ウィアー・ポイント*3を訪れたあと、どこかでクリフォードが投げ捨ててしまったあの日──ええと、これ幽霊のお話でしたね。
船旅は何事もなく無事に進みましたが、それもわたしの帽子が風に吹き飛ばされるまででした。メーベルはそれが偶然の出来事じゃないかのように言ったんです。まるでわたしが自分の髪を見せびらかしたくてわざとやったとでも言いたげで。髪なんて見せびらかしたつもりはないけど、まあ、わたし自身を見せびらかしたことには違いないでしょうけどねって言ったらメーベルが怒り狂っ──腹を立ててしまって。いつものようにわたしがジェーンおばさんに叱られました。どちらの姪っ子が財産を持ってるかおわかりでしょう?
断崖に口を開いた洞窟を散策するため、わたしたちの一行はヨットを降りました。すると、メーベルとクリフォードが恥知らずにもいちゃいちゃし始めたんです。少しも楽しくなかったですね──洞窟のことを言ってるんですよ。ふたりがいちゃいちゃすることは別に気になりませんでした。わたしはとくにゴールドバーン教授に親切に接したので、ジェーンおばさんはわたしのことを愛しい子と二度も呼んだし、ゴールドバーン教授に至ってはわたしへプロポーズをしそうになっていました。そこでジャックが助け船を出してくれたんです。ヨットへ戻るよう全員に声をかけてくれたのは、まさに教授が調子に乗って本題に入ろうとしていたときでした。もちろん、ジャックの呼び声を聞くなり、わたしはすぐに逃げ出しました。あとについてくる教授を尻目にして──教授だろうと何だろうと太った男って大嫌い。
水平線の向こうから嵐の鳴り響く音が近づいて、どんよりくすんだ雲が頭上に覆いかぶさる荒れ模様の天気になりつつあったんですが、まだわたしたちは船を出すことが出来ずにいました。メーベルとクリフォードがぐずぐずして崖下の道を引き返すのに手間取ったからです。バカみたいにふざけあっちゃって!
湖のおもてはガラス細工みたいに滑らかで水はインクのように真っ黒、これが家まで4マイルの道のりを塞いでいるのかと思うと震えが来るほどでした。
ジャックが帆を揚げたんですが、しっかり張れずに垂れ下がってしまうんです。それで仕方なく漕いでヨットを進めるほかなくなりました。ジャックとクリフォードが漕いで、わたしが舵を取りました。クリフォードが一度わたしに話しかけてきたけど無視しました。互いに相手にしないようにしようという決まりになっていたんです。
「慎重にヨットを寄せてくぞ。座礁しないように注意しながらあの岬を回って入り江の中に行こう」
「そうしなけりゃ……」ジャックは陽気に言ってのけました。「この船が俺たちを湖に放り出しちまうぜ。でもな、この船はきっと俺たちにそんなことはしないはずさ!」
わたしはむしろこの船のせいでわたしたちが色んな目に遭いそうに思いましたが、議論するためにヨットを止めようとはしませんでした。そんな時間はありませんでしたし。どんなふうにしてそういう羽目に陥ったのかはわかりませんが、ジャックの言った通りになりました。ヨットがひっくり返って私たちは湖に「放り出され」ました。
岸から遠くはなかったので、ヨットが転覆したといっても大した問題ではありませんでした。水は浅くて難なく岸まで歩いてたどり着けるほどでしたが、メーベルは助けを求めたんです。それに応えたのはもちろんクリフォードでした。バスタブに水を張った程にもならない浅瀬だっていうのに! あの女の信じがたいほど馬鹿げた振舞いったらもう!
最初に湖岸までたどり着いてよじ登ったのはわたしで、腰を下ろして風と雨に晒されながらほかのみんなが上陸するのを笑って眺めていました。(メーベルが言うには、わたしは自分の葬式の時にも笑ってるに違いないんだそうです。もしメーベルの葬式があったならば笑うことが出来たんでしょうけど)彼女みたいに大きく成長し過ぎた女(あと1オンス*4で体重150ポンド*5)が若い男の肩にもたれ掛かってすすり泣きしている様子を想像してみてください! それに巻き毛が濡れて全部伸び広がったあの頭、水が滴って縞模様に色褪せたあの顔色ときたら……。クリフォードが吐き気を催さなかったのが不思議なくらいです。そうはいっても、男って時どきひどい悪趣味を披露したりするもんです。その頃わたしは自分がとても魅惑的な女だとは思ってなかったけれど、それでもわたしの顔が水に濡れても血色の良さを保てるのはありがたいことですね!
わたしたちが湖岸にたどり着くのと前後して、ザ・ニュー・ウーマンが逆さまの状態になって岸辺に打ち寄せられました。わたしの着古したゴルフ・ケープは、乗船中手放さないようジェーンおばさんに言い付けられていた物なんですが、水際の柳の枝に引っ掛かっていました。ジャックがそのゴルフ・ケープとジェーンおばさんの小さなグレーのショールを取ってきてくれました(おばさんの緑色の傘は二度と見つかりませんでした。いい気味です)。メーベルのセーラーハットはわたしたちが岸辺にいるあいだにさざ波に打ち寄せられてクリフォードが拾いました。
折しもジャックがその辺りに古い小屋があったことを思い出したんです。おかげでわたしたちは、かつては人通りが多かったに違いない小道を発見して、それが森の奥へと通じていることを見て取りました。気が滅入るような道のりを稲光を頼りにしてわたしたちは進んで行きました。
ジャックは先頭に立って進みつつ、朗読を始めました。「それは夜のことだった! 強烈な稲光が天穹をつんざき、震える大地に火の玉を振り落とした。大自然は激動の真っただ中だった!」とか、そんな感じで。「ペニー・ドレッドフル*6」のひとつから引用したんだと思います。
ちょうどジャックが「激動」という言葉をリズミカルに朗じたとき、教授が木の根っこにつま先を引っ掛けて転んだので、わたしは笑ってしまいました。ジェーンおばさんは今度は「わたしの愛しい子」と呼んでくれませんでした。代わりに「ゼラァアアッ!」ですって。気にしませんけど。ジャックも笑ったんですが、咳をする振りをしてごまかしてました。
わたしたちは小屋を発見したんですが、そこは高く生い茂ったゴボウと自生のバラの茂みによって半ば隠された場所でした。戸口の踏み板は陥没していて、幾度もの夏を経て降り積もった落ち葉で覆われていました。
ジャックがドアを押し開いて、「お化けだ!」と不気味な口調で叫んだのでぞっとしました。でもメーベルがギャーギャーわめいてクリフォードの腕をつかむのを見て、わたしは脇目も振らずジャックの背中を押して敷居をまたぎ中へ入って行きました。
稲光が射し込んでドアの向こうにある大きな古い暖炉を照らし出しました。乾いた焚き木の山が部屋の片隅にうずたかく積まれていて、ほかにある物と言えば、椅子がいくつかとテーブルが一つだけでした。
ジャックが喚声を上げて暖炉の前に躍り出たかと思うと、程なくしてわたしたちは燃え盛る炎で暖を取ることが出来ました。ジャックのマッチが水に濡れていなかったのは驚くべきことです。マッチを収納する箱に大枚はたいたに違いありません。非常識なほど高価だったとジェーンおばさんは言いましたが、あの晩、乾いたマッチを持ち合わせたことを思えばじゅうぶんその価格に見合った買い物でした。湖に浸かったせいで半ば凍えつきそうになっていたわたしたちは暖炉の火に寄り集まりました。長いこと持ち歩いていたわたしの馴染みのゴルフ・ケープが役に立ついい機会だと思い、広げて乾かすことにしました。夏のあいだずっと持ち歩いていたものの、一度も使っていなかったんです。ジェーンおばさんとわたしは濡れた髪を下ろして絞りました。ところがメーベルはたいして髪が濡れてないからと言って、そうしませんでした。それでわたしの心の中の疑問が解けました。ジャックがにやりと笑ったのは、つまりそういうことです。ジェーンおばさんはこの二人をくっ付けようとしてたんです!
ゴールドバーン教授が暖炉の火に背を向けてブヨブヨの手をこすり合わせつつ、色目を使ってわたしのほうを見つめるので気分が悪くなってしまいました。表に出さないようにしましたけど。教授はその時すでに眼鏡をなくしていて、巻き毛だった口髭はもはや伸び切ってしまい、襟はしわくちゃといったありさまだったので、あの愛想笑いがそぐわずに浮いて見えました。100万ドルに値する人物かどうかなんてわたしの知ったことではありません。ただ気味の悪い男だとしか思えません! わたしはクリフォードが睨みつけてくるのを見るためだけに教授に微笑み返してみせました。でもクリフォードはわたしのほうを見ていません。わたしに背を向けてメーベルに何か囁いているんです。クリフォードであれ、誰であれ、こういう振舞いは失礼です。
そのあとジャックが隣の部屋に何があるのか気になって、というのも二部屋あるように見えていたからなんですが、わたしと連れ立って探索をしに行くことになりました。
そこはかつては寝室だったんだと思います。埃とクモの巣のほかに何もなく、とても狭いので長居するには及びませんでした。ジャックはマッチを一本燃やすだけで済みました。指は二本も焦がしたんですが。
そののち、わたしたちは暖炉の火を囲んで坐り、嵐の音に耳を傾け、お腹が空いてることを意識しないように努めました。昼ご飯のあと何も食べていなかったので大変でしたが。
ジェーンおばさんはジョンおじさんのことが気掛かりで、今頃どれだけ心配しているだろうかと不安な様子でした。でもわたしはむしろ嬉しい気持ちでした。あの朝、おじさんはわたしをひどく叱りつけて、メーベルと違って親切さや品位に欠けていると説教したんです。今頃おじさんが後悔していればいい気味だと願いました。
ジャックはクーン・ソング*7を歌い、ケークウォーク*8までやりました。わたしも立ち上がってダンスに加わりました。メーベルを動揺させるためです。彼女はケークウォークをレディーが踊るなんてもってのほかだと思っていて、わたしがそういう類のことを始めるといつだっていきり立つんです。
わたしたちへの罰のつもりだったんだろうと思いますが、ジェーンおばさんが教授を促してお得意の微生物の話をやらせたんです。いったん教授の話が始まったあとは誰も出し物を披露したりしませんでした。教授は細菌のおそろしさなどについて延々とおしゃべりをして、大真面目でみんなに向かって断言したんです。古びた小屋には間違いなく不気味な名前を持つ病原菌がはびこっているんだと。こんな男との結婚生活を想像してみてください……うぇっ!
やがてジェーンおばさんが眠りに落ち、クリフォードが塞ぎ込んだ様子で我を忘れて暖炉の火に見入っていた頃、メーベルもまたジェーンおばさんの例に倣って眠りにつきました。わたしは空腹で機嫌を損ねていたので教授の退屈な話をもってしても眠ることが出来ませんでした。
わたしはゴルフ・ケープにくるまり、暖炉の前の古びた肘掛け椅子に身を寄せました。ジャックと教授がそれぞれわたしの両側に、クリフォードは壁際の小さなベンチに腰を下ろしていました。ジェーンおばさんとメーベルは反対側で、クリフォードと向かい合う形になっていたけど、眠っていたのでどうでもいいことです。
ふいに何かの物音に目を覚まされたので、わたしは頑張って目をつむらないようにして姿勢を正して耳を傾けました。荒れ狂う嵐が今もなお小屋の壁に吹きつけているけれども、それとは別の音が明らかに聞き取れます。間違いありません。誰かが隣の部屋で歩き回っているんです。
みんな互いに顔を見合わせて、そのとき初めてわたしは背筋の寒くなるような不気味な感じに囚われました。
クリフォードが暖炉から燃え差しを拾い上げて閉まっているドアに向かって近寄り始めると、わたしたちも後に続きました。戸口に群がったわたしたちの前に見えたのは埃とクモの巣、そしてクリフォードの松明が粗末な壁板に照らし出した踊る炎の影だけでした。こんな小さな空っぽの部屋に何を恐れてるんだろうとみんな自分の過敏な神経を恥ずかしく思ったんじゃないかと思います。
足音は止み、低い天井の上で風と雨の打ち付ける音だけが聞こえました。
「風だよ」とクリフォードが言いながら、松明の火を燃え上がらせようと下に傾けました。
「屋根の上の枝から雨水が落ちる音だ」と教授は言いました。あの晩、教授が言ったことの中では最も理にかなったものだったと思います。
「たぶんネズミさ」とジャックが口をはさみました。「幽霊のはずがない。幽霊ってのは何より物音を立てないって言われてるだろ」
幽霊のことを持ち出したジャックをわたしはきつくつねって、歯をガチガチ震わせながらきっぱりと言いました。
「教授、あなたが連れて来た微生物でしょう」
ジャックはクスクス笑い、教授は目をぎょろつかせてわたしを咎めました。
それから全員が暖炉に戻り、ジャックは焚き木をさらに放り込みました。教授は話を続けていましたが、今度はテレパシーとかそういう類のものについてでした。しばらくすると、先ほどと同様に重い規則的な足音が聞こえてきました。わたしはその音が気に入らなかったと言わざるをえません。もっともらしく足音を立てるのに必要な足を持った人影がなく、かといって物音を立てることのできてしまう不気味なほど興味を引かれる幽霊もいないことを思えばなおさらのことです。でも男たちが足音のことを無視しているようだったのでわたしも気にしないように努めました。
ジェーンおばさんが眠っているのを見てジャックはタバコを吸い始めました。クリフォードは暖炉の灰をつついて固め、おかしな形の山盛りにするのに夢中になって額にしわを寄せていました。彼は間違いなく機嫌が悪そうでしたが、怖がったりしているようには見えませんでした。
それからしばらくしてわたしはほんの少しのあいだ目を閉じました。教授の声はまだ大きなハチがブンブン唸るみたいに聞こえていましたが、その時いきなり文の途中で言葉が途切れました。教授にしては珍しいことでした。たとえ妨害されてでも巧妙に一文を締めくくるのにこだわりがあったんです。
わたしはまぶたを開いて教授に目を向けました。口を半ばひらいて恐怖に満ちた眼でわたしの後ろにいる何かを凝視していました。
ねえ、誰かがあなたの後ろのほうをじっと見つめだしたらどんな感じがするかわかるでしょう。たとえ罰としてすぐさま縛り首の刑になるとわかっていても、振り向いて見ずにはいられないものです。
わたしは椅子に坐ったまま振り返りました。そして(ブルブルブル)! 全身が寒気に包まれ、頭皮をチクチク刺すような痛みを覚えました。(髪の毛が逆立ったからなんだろうと思っていますが、ジャックに言わせればわたしの頭はいつだってそんな感じなんだそうです)
ゆっくり部屋を横切ってまっすぐわたしのほうへ近づいて来たのは一人の男……の幽霊、ああもう何だったかわかりません! 恐怖に怯えながらチラッと目を向けた途端、わたしは肘掛け椅子から飛び上がって床で跳ね、小さなベンチに腰掛けていたクリフォードの元へ体を寄せました。そこにいたのがクリフォードだと気がついたのは彼の腕に触れたときです。あのゴルフ・ケープの中で!(あのありがたい古びたケープをゴミに出すことは決してありません、絶対にです)
わたしが椅子から飛び跳ねるやいなや、それが椅子に滑り込んで来ました。そこに腰掛けたのは、背が低くがっしりした体格で白髪交じりの頭に荒れた手を持つ男でした。目つきはうつろで、まっすぐ暖炉の火を見つめていました。
白状しますが、最初に一瞥した時ほんの少しがっかりしました。わたしはそれまでの人生ずっと本物の幽霊を見たいと願っていたのに、この幽霊は絵になるタイプじゃないし、従来のイメージと似ても似つかなかったからです。何で白いシーツをかぶってないんでしょう? 色褪せたブルーのオーバーオールに赤いフランネルのシャツを着た幽霊なんて! わたしがそのとき感じた寒気は、実は以前にも経験していました。
例を挙げると、クリフォードに投げ捨てられたわたしの指輪が、湖面に波紋を広げながら沈んでいくのをわたしが見つめていたとき、彼は悔しそうに言ったんです。「女というものへの信頼をなくしたよ」と。まさにそのとき感じたのと同じぞくぞくするような寒気がわたしの背中を這い伝うように流れたんです。あの時よりもっと気味悪く感じたと思います。
全員が麻痺したように坐っていました。少ししてわたしは勇気を振り絞ってクリフォードの顔をチラッと見てみました。すると彼ったらなんとこの状況を楽しんでいるようなんです! わたしを見下ろした彼の眼は微笑んでいました。確信はないけど、口元もそうだったと思います。少しも怖がっているようには見えませんでした。 ジャックは間違いなく青ざめた面持ちでした。あとでそう言ったら鼻であしらわれましたけど。教授の顔は巨大な牛脂の塊みたいになってました。
何時間も経過したかのように感じられたあと──たぶん実際には数秒だったんでしょうけど──幽霊が立ち上がって滑るようにしてドアまで戻り、そして姿を消しました。
ジャックが大きく息をして煙草の葉を巻き上げました。手が震えていたせいで手間取ったことをわたしは知ってますけどね。教授は気を取り直して言いました。「主よ、私の魂にご加護を!」言い方がひどくって神への冒涜も同然でした。それから教授は人差し指を上に向けました。
「皆さん」と切り出した声は震えて半ば囁くようでした。「われわれはちょうど今しがた、何か常ならぬ、というか驚くべきものを目の当たりにしました」 「まったくもってその通りだぜ!」と言ったジャックは、肩越しにこっそり見やりながら椅子の縁でマッチをこすりました。
「さて」と慌ただしく言葉を続けた教授は、ジャックの落ち着き払った態度にいくらか安心させられたようでした(とはいっても、教授はただ大丈夫な振りをしていただけに違いありませんけど)。「この話題についてあれこれ言う前に、科学的調査のため、われわれが順番にあの、えー、現象について簡潔な記述をしてみることを提案したい。そうすればわれわれの印象がほかの者の意見に影響されてしまうのを避けることが出来る。では、ええと、ご婦人からどうぞ」
ぎこちなく話を終わらせて、教授はわたしに小さな赤いノートと鉛筆を渡しました。
「君が目にしたものを簡潔に記述したまえ。何か見たはずだ。それからページをめくってノートをウィルトンさんに渡しなさい」
これは通常まず体験することのない珍しい試みだと思えて、またわたしは周りの人が想像するほど怯えてもいなかったので(クリフォードと仲直りできそうなことがとても励ましになったんです!)、ノートを受け取って書けるだけのことを書きました。
それからクリフォードが気乗りしない様子でわたしのケープの中から腕を引き出して、──この間、彼の腕がずっとそこにあったことを誰も気が付かないことを祈ります──素早く書きなぐるとページをめくってジャックに渡しました。するとクリフォードの腕が──ああ、えっとどうしたらよかったんでしょう? わたしは手をつねってやろうとしましたが、クリフォードの指に強くつかまれて離してもらえません。そんなわけで、わたしにどうすることが出来たでしょう?
ちょうどその時ジェーンおばさんが震えながら目を覚ましました。
「お慈悲を……」とおばさんは言いました。「なんてひどい嵐だこと!」
おばさんはすぐに隣の部屋の足音に気づきました。
「おかしいわね」おばさんは振り向いて耳を傾けようとしました。「あれって何の音かしら?」
「風だ」教授にしてはぶっきらぼうな言い方でした。
「水さ」クリフォードはわたしの指をぎゅっと握って言いました。
「ネズミだよ」と応えたジャックの口調は怪しげだったので、いったいどういうつもりで言ってるのか誰にもわかりませんでした。
「微生物でしょう」ほかの者たちの簡潔で冷静なコメントに負けじとわたしが締めくくりました。
「ゼラ!」ジェーンおばさんが大声をあげて、気遣わしげに教授のほうをチラッと見ました。
教授はわたしを見てため息をつきました。ジャックは胸の前で拍手をしようとして三本足のスツールから危うく落ちかけました。ジャックはゴールドバーン教授が我慢ならないんです。
「ゼラ」ジェーンおばさんがわたしに向けて話し始めました。「あなたあの椅子に腰掛けたほうが楽なんじゃない?」(あの幽霊が坐った椅子のことです)
「いえ、結構です!」にべなく却下したのは横柄だったかもしれません。でもあの椅子にまた坐らせようとするなんて!
ジェーンおばさんは振り返って、ジャックがスツールに窮屈そうに腰掛けていることに気が付きました。(そのときジャックはいつものようにだらしなくしていました。もたれ掛かれる物があるときは、姿勢を正してまっすぐ坐ることが決して出来ない人なんです)
「ねえ、ジャック! クッション付きの肘掛け椅子があるのに坐らないなんて……いったいどうしたの?」
「いやあ、別にい何でもないよう」ゆっくり声を伸ばしてジャックが応えます。「母さんがそこに坐ったら?」
「そうするわ。この背もたれが垂直の椅子より楽そうだし」と言って、その色褪せたキャリコ生地のクッションに深く腰を下ろしたんです。わたしは恐怖で震えました。
もし赤いシャツを着た幽霊が戻って来たら──まあ、ジェーンおばさんのことだから絶叫するでしょうね。
みんなかなり長い時間もの静かに坐っていたように思えます。わたしが頭をクリフォードにもたれ掛からせてひと眠りしようかどうかと思いあぐねていたまさにその時、彼の腕が注意を促すようにわたしを締め付けました。見ると、あの幽霊が椅子のほうへ滑るように近寄って行きます。どんよりとした目つきは先程と同じように暖炉の火に向けられていました。
ジャックは振り向いて幽霊を見るなり、顔面蒼白になりました。ジャックがこの時怖がっていなかったなんて言い張ってもわたしには通用しません。見ての通りです。
幽霊をじっと見つめてわたしは恐怖に襲われました。大声を上げようとしましたが、思うように舌を動かせずにいると(乾ききっていてどうにもなりませんでした)幽霊があの椅子にたどり着いて──まさにジェーンおばさんの上に坐ったんです! 本当に坐ったんです! おばさんは少し身じろぎして震えました。
「もっと焚き木を火にくべてよ、ジャック」おばさんは言いました。「寒気がするわ」
寒気ですって! まったく、寒気くらいみんな感じたでしょうよ! 神経の図太いジャックでさえ自分の母親の膝のうえであれが子どものようにあやされてる光景を目の当たりにして身震いしたんです。
「母さん!」と叫んだジャックの声はかすれてました(怖くなかったと言い張る男にしてはずいぶんと)。「お願いだからそこどいてよ!」
そうそう、お話はこの時点でどうしても埋まらない空白があるんです。
次にわたしが思い出せるのは、ジェーンおばさんがメーベルのセーラーハットでわたしを扇いでいたこと、ジャックが水でいっぱいの古ぼけたトマト缶を持って、裂け目から水が噴き出るままにわたしのそばに立っていたこと、そしてそのジャックがやけに真剣に見えたことなどです。教授は手をこすり合わせながら言ってました。「主よ、私の魂にご加護を!」と何度も何度も繰り返し。あの男大嫌い!
赤いシャツを着た幽霊は姿を消して、人のいない部屋から足音が聞こえることもなくなりました。
それから夜明けを迎えるまでには1000年かかりました。どの時計も止まっていたのでわたしの個人的な見積もりでそう言ってもかまわないだろうと思います。
さて、幽霊のお話はこれが全部です。夜が明けてどんなふうに帰宅したかを話したらあまりにも長くなってしまうでしょう。森を突っ切って6マイルですよ。ジェーンおばさんと教授はまだ1マイルも進まないうちに蒸気機関みたいにフウフウ息を切らしたりして。ジョンおじさんなんて蒸気船を繰り出してわたしたちの遺留品を捜索していたんですよ。すべて話そうとしたら別の物語がひとつ出来上がってしまうでしょう。わたしには今このお話をするのが精一杯です。
いえ、わたしあの小屋に泊まりに行ってこういう夢を見たんじゃありません。だってあの晩以来のクリフォードの振舞いをどう説明するんですか? それにあの赤いノートはどうなんです? あれが幽霊が実在したことの証拠として十分だとわたしは思います。
あの幽霊を見た印象についてはみんな似通ったものでした。ジャックが言った「あの幽霊、髭を剃りたそうにしていたよ」というのは、わたしは気が付きませんでしたけど。教授が書き綴った幽霊の印象はひたすら長ったらしくて意味をなさないものでした。彼が幽霊を見たという点を除いて。
ジェーンおばさんには幽霊がまったく見えなかったようです。もし見えていたら恐怖のあまり死んでいたに違いないわと言っています。一部始終をずっと寝て過ごしたメーベルはカンカンに怒っていました。みんなが共謀して幽霊の話をでっちあげて自分をからかっているに違いないとまで言うんです。
メーベルと教授はあのあと同じ日にわたしのもとを去りました。メーベルはもはやわたしの前でまともに振舞えなくなったんです。事実を知った後では──
そうそう、わたしは改めてルビーの指輪をもらいました。ウィアー・ポイント近くの湖底に沈んでいるのとまったく同じものです。そして今やクリフォードは女性への全幅の信頼を取り戻すに至りました。
<了>
訳注:
原文へのリンク:Lippincott's Monthly Magazine 1904-07 Vol 74 Iss 439