
不法侵入者
著者:B. M. バウワー
訳者:望月ともたり
手綱を緩ませて馬の首に掛け、注意深く景色を見渡したイデルは明らかにいらだちを隠せなかった。彼女の周囲では遥かな地平線まで延びる静まり返った褐色の放牧地が、穏やかに霞んだ日差しのもたらす靄に浸っていた。11月も下旬になるとこの土地で時折見られる光景だった。その多くがイデルの父親の焼き印を押されている放牧牛の群れは、丘をのんびりとうろつきまわるか、そうでなければ峡谷の底の方へのろのろと物憂げに歩いていた。東の彼方ではすみれ色や深紅の無数の影(1)が高く積み重なって、茶色い放牧地と青銅色の空とのあいだで漂っていたが、それも今まさに消え入ろうとしているようだった。非常におぼろげで現実離れした光景だった。ベアポー(2)はこういう場所だった。
彼女は後ろを振り返って一瞬ためらいがちに臭いをかぎ、再び前へ向き直った。遠くの草原で起こった火事の残り香が大気中に漂っていたが、あまりにも遠くなので気にも留めなかった。低く連なる丘陵と黄色く縁取られた浅い峡谷とを再び観察し、縦に真っ直ぐ下りた三本の道筋(3)のほうへ額を向け、意味ありげな仕草で手綱を引き締めた。馬のテンドイは怪訝そうに耳を交互に前と後ろに傾け、それから落ち着いて歩み出した。
丘の麓に下りるとイデルはテンドイをゆっくりと走らせ、嗅覚に従って進んだ。本当は後をつけたくなるような心地いい匂いではなかったのだが。忘れもしなければ間違えるはずもない、それは羊の放つカビ臭い悪臭だった。臭いの来る方角からして羊の群れが立ち入り禁止区域で草を食んでいるものとイデルは判断した。ある谷間の下に広く浅い流れの小川があって、彼女は嗅覚神経が異議申し立てをするままに導かれ、憤慨してその方向へと進んで行った。その谷と小川の辺りをうろつく羊は許されざる罪を犯しているも同然だと彼女は考えた。谷は彼女の父親の所有地であり、父親は牧牛を飼育する牧場主だからだ。牛と羊が放牧地において相容れない存在であるというのは誰もが知っていることだ(4)。
谷の上から遥か下まで、そして小川のどちらの岸辺においても羊の群れがうろつきまわり、澄み切った水と厚く生い茂った草むらとを満喫していた。子羊たちはまだ成育途上だったが、丸みを帯びた体にしっかり巻き上がった毛をたくわえ、生きる喜びに満ちあふれていた。川岸のあちこちを駆け回って遠慮なく鳴きまくり、これまでも長きにわたって耐え忍んできた母親たちに耳障りなトレモロたっぷりの鳴き声を聞かせるのだった。
イデルは歯をくいしばって子羊の群れへ向かって馬を走らせ、危うく羊飼いを踏みつけてしまいそうになった。汚れたスラウチハットを鼻まで深くかぶり組んだ両手を頭の下にして、羊飼いは薄暗い日差しのもと寝そべってくつろいでいた。彼女はテンドイを停まらせ、男を厳しい視線で見つめた。
男は肘をついて起き上がり、問いかけるような目つきでイデルを見ると立ち上がって会釈をした。潔白を決め込んだ態度のずうずうしさに彼女は男をつかんでゆすぶってやりたいと思った。ただ彼はとても体が大きかったのだ。
「あなたがこの羊たちの世話をしてる張本人ね?」彼女は好戦的とも取れる調子で尋ねた。
「そのご光栄にあずかっている次第です」
イデルはあらためて男を見つめた。彼は浮浪者のような──言い換えれば羊飼いにありがちな身なりをしていた。それでいてこんな話し方をするとは!
「だったら不法に侵入しているってことを承知のはずね。尾根のこちら側に羊が入ることは許可してないの」
「だったら尾根を柵で囲うべきだね」
「あなた、いい度胸してるじゃない!」彼女はカッとなり頬を真っ赤にした。
「いやあ、それほどでもないですよ!」謙遜する口調で彼は応じた。まるで彼女に褒められでもしたかのように。
イデルは口ごもり、そのあいだ彼を睨みつけて大いに恥じ入らせようとしたが、あいにくただ彼をおもしろがらせただけのようだった。彼女はこの手の羊飼いのあしらい方をまったく知らなかったわけではない。羊をこの谷に立ち入らせないよう命令したのはこれが初めてではなかったが、当の羊飼いがたとえほんのわずかであれ笑わせるような態度を取ったり、公然と反抗の姿勢を示したりすることはこれまでになかった。以前なら抗議の言葉などなしに恐縮して立ち去ったものだった。ほかの誰もが知っているように、羊飼いたちも何が不法侵入にあたるのかを承知しているのが常だった。この男の自信ありげな態度に彼女の怒りは募っていった。
「この件を片付ける前にいくつか言っておくべきことがありそうね」と彼女は偉ぶって警告した。
「そりゃどうも!」彼は平然そのものといった様子で微笑んだ。
「あなたがなぜ羊の群れをこのうちの家族の谷まで連れ込んだのか教えてもらえる?」彼女は改めて切り出した。
男はたわごとを聞かされて幾分心外だといった驚きの眼差しで彼女を見つめた。「そりゃ水を飲ませるためさ。羊だってときどき水を飲まなきゃ。そうだろう?」
「あら、それはごもっとも! で、誰がここで水を飲ませる許可をあなたに出したっていうの?」
「誰も。誰かに聞いたわけじゃないからね」
「たぶんこういうことじゃないの?」彼女は皮肉を込めて言った。「土地の所有者が異議を申し立てるなんて思ってもいなかったんでしょう。事実を承知した以上、犬と一緒に羊の群れを連れて帰りなさい。今すぐに!」
羊飼いは岩の上に腰を下ろし、自身の庇護のもとにある羊たちに愛情のこもった寛大な眼差しを向けた。「ああ、かわいそうに! あの子たちがあなたの芝草を奪い取るだなんてわけがわからない。草の上であんなに楽しそうにしてるじゃないか」
「出て行かないつもり?」
「おやおや、もちろんだとも! この谷で夜を過ごすつらさを想像してみてよ! でも今この時間なら暖かくて心地いい。それに──ぼく疲れちゃったよ」
「わ、わたしはね、今あなたを叩きのめしてやりたいくらい怒ってるの!」彼女は馬を一歩近づけて羊飼いを見下ろし、甲斐無き怒りを募らせた。こんなに侮られるなんて──ただの羊飼いに!
くたびれたグレーの帽子を後頭部まで押し上げ、羊飼いは落ち着き払って彼女を見やった。「本気なのかい?」彼は心の中でこの事態について人ごとのように考えをめぐらせている様子だった。「そりゃ変だな。なあ、僕は君を叩きのめしてやりたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないよ。それに僕がちょうどうとうとしかけているところを君は邪魔したんだぜ。僕だっていきなり叩き起こされるのは嫌いだよ。僕はきっと──」と黙想に耽るように続けた。「まったくもって寛大な心の持ち主に違いないと自負してるんだ。これまで疑ったことなんてないけどね」
イデルは唇を噛んだ。何が何でもこの男の愚かさを笑いものにして説き伏せてやるつもりだった。「あなた誰に雇われてんの?」と彼女はぶっきらぼうに尋ねた。
「エド・バージェスだよ」彼は関心なさげに答え、枯れた雑草をむしり取って親指で注意深く引き裂き始めた。イデルは彼の手がとてもきれいなことに気づいた──羊飼いにしては。
「じゃあ、あなたのこと報告するわね。バージェスさんは自分のところの羊飼いが他人の敷地を徘徊するのを許しはしないから。それに──」
「貧乏人から働き口を奪うなんて真似はしないだろうね?」彼は熱意のこもった眼差しで見つめた。あまりにもの熱意にイデルは目を逸らしたくなった。
「わたしのせいじゃないから。あなたが働き口を失うことになってもそれは自業自得。わたしが出て行くよう言ったら出て行かなきゃダメなの」
「でも僕にそんなこと言うべきじゃないよ」と彼は反論した。「考えてもみてよ、羊たちのことを。あそこでやってる鬼ごっこをやめさせろって言うのかい?」彼は弛緩した人差し指を向けた。「母親の周りを跳ね回ってるあの無邪気な幼い子羊たちを見てよ──」
「バカバカしい! どう見たって母親と同じくらい大きく育ってるじゃない──それに、とにかくわたし羊が大嫌いなの」
「じゃあ、僕のことを考えてみてよ。あの幸いなる羊の群れのあとを追って、夜明けからずっとてくてく歩き続けてきたんだ。僕が脚の痛みをどれだけ耐え忍んだか知ってもらえれば──」
「知りたくない。どうでもいいから──あなた個人の気持ちなんて」さえぎってそう言うと、彼女はさらに頬を紅潮させた。
「僕にとってはどうでもよくないのさ。だから君を怒らせる危険を冒すことは正当化されると思う。僕の──えーっと──個人的な気持ちが収まるまでここに留まってもね」
イデルは発作的に笑った(5)ものの、自制してすぐに冷淡に怒りを募らせた。「残念だけど、あなたを強制的に立ち退かせることは出来ない。わたしが男だったらそうしてるでしょうけどね。ただ女だからって理由で調子に乗ってるんでしょう。うちの男たちの誰かをここに来させて退去命令を出して、あなたが立ち去るところを見届けることにしましょうか」
「いや、出て行くさ──しばらくしたらね。もし僕が君の立場だったら、わざわざ出て行かせるなんてことはしないよ。どのみち僕はクビになるだろうし、だからここにはそう何度も戻ってくるつもりはないさ」
「そもそも来るべきじゃないの! あなたにはその権利がないの。も、もしまた来たら、パパが帰って来たときに言ってやるから。あ、あなたほど意地悪な男なんて見たことない!」
男は悲しげにため息をついた。「なあ、あそこまで言われるほど何かひどいことを僕はしたのかな?」と哀れな口調で丘陵に向かって尋ねた。「彼女が言うことには、僕ほど意地悪な男を見たことがないんだって! この僕が! 意地悪だなんて──」
「ああもう、モンタナでいちばん小賢しい男があなただってことは間違いないでしょう。あなたほどじゃなくてもこんな手合いの輩には二度と会いたくない。忠告しておきます。あなたの飼ってる汚らしくて臭い羊たちを二度とこの谷に連れて来ないように。さもなくば──」
「僕の羊じゃないよ」と彼は慌てて否定した。「所有者はエド──」
「誰のものかなんてわたしの知ったことじゃない」イデルは腹立たしくて泣きそうだった。「もし明日あなたがここに現れたら──」
「ありがとう。そうなったら嬉しいね。間違いないよ」羊飼いは立ち上がって帽子を掲げた。
「違う、来ちゃ駄目だって──絶対に!」彼女は衝動的に馬に鞭を入れて元来た方へと引き返し、即座に全力疾走で走らせながら、肩をそびやかしてことさら背筋を伸ばしてみせた。この姿勢は威厳を示すものである一方、素早く馬を走らせるときには決して快適なものではなかった。羊飼いの視界から外れたと感じるやいなや、彼女は姿勢を通常に戻すとともに痛烈な叱責の言葉をいくつか思いついたが、もはや遅すぎると後悔した。引き返してその言葉を浴びせてやろうかという気にもなったが、品位に欠けるとみなしてその衝動を抑えた。
明くる日、馬に乗って出かけた彼女はほかでもないあの羊飼いの無礼な振舞いに終止符を打とうと決意した。あの男にたまたま教養があるからといって平然と土地の所有権を無視していいわけがないと考えたのだった。男に教養があることでむしろその振舞いについて余計に言い訳が立たなくなるはずだ。いずれにせよ、彼のような輩に羊の群れを率いる権利はない。どうしてあの男はもっと有意義な振舞いが出来なかったのか? きっとひどく怠惰で向上心がないからに決まってる。あの汚い恰好がその証拠だ。
立ち入り禁止の境界を区切る尾根の上に、ちょこちょこと走り回る二つの点を連れた動く灰色のかたまりが目に留まるとイデルは激昂した。あの男またしても! きっとあまりにも馬鹿なせいで、行ってはいけないと女に言われたらむしろそこへ行くことが利口だと考えたに違いない。
彼女は羊飼いのいる方へ進み始めたが、尾根までは1マイル以上あった。そこで馬を停めて考えることにした。羊飼いに笑われるだけだろう。ちょうど前日そうされたように。自分には癇癪を起こすほか何も出来ず、丸っきり理不尽な思いをするだけだろう。生意気な子供をあしらうかのように笑われて、そのあとは無視されるに決まってる。
最初の不法侵入のあと彼が自重していたなら、あの無礼な振舞いを許せたかもしれない。しかし戻って来るならば──彼は間違いなく戻ってくるだろうし、そうでなければ尾根の上に登って来るはずがない。きっと羊の群れをこっそり谷の下まで追って、昼には小川のそばでキャンプをする予定に違いない。そんなことをもし許したならば自分には自尊心のかけらも残らないことになるだろう。取るべき道は一つしかない。それはあの男にしかるべき処置をすることだった。
彼女は馬を引き返して家へ向かって急がせ、キッド・ブラントを探すことにした。身長が6フィート2インチ(6)のキッドは、その背丈を支えるに十分な筋肉と強い意志とを持ち合わせていた。羊飼いは体格が大きく筋骨たくましく見えたが、キッドはもっと大きかった。それにキッドの気に入らないものが何かあるとすれば、それは羊飼いにほかならなかった。彼女はただ、ナインマイルの水隙(7)で羊の群れが水を飲んでいると伝えさえすればよかった。あとはキッドが何とかしてくれる。
キッドは言葉を発することなく、時間を無駄にすることもなく馬にまたがり、ふたりは連れ立って現場に引き返して行った。イデルは自分が同行することをことさら正当化しようとはしなかった。同行したいと思うから同行する。それで十分だった。羊たちは特に目だって境界へと近づいてはいなかったが、それでもあの谷から半マイルと離れていない尾根の上にいた。キッドが先導して尾根へと近づき、イデルはそのあとを黙ってついて行った。
「あの羊たち、まだ俺たちの土地に入っちゃいないぜ」とキッドが尾根を登りながら言った。「でも確かに境界のすぐそばで草を喰ってるな。もしお前の言う通りならこっそり尾根を越えて降りて行くに違いねえ」
「昨日と同じ羊の群れを昨日と同じ羊飼いが連れて来てるってこと」とイデルが請け合った。「昨日わたしが立ち去るように言っても、ただ笑うだけで動こうとしなかったの。まるでこの世の支配者にでもなったつもりなんじゃないかってきっと思うはず」
「今回は立ち去ることになるだろうぜ」キッドは険悪な顔つきで予想した。「それに肋骨が痛んで笑うことなど出来やしないだろう」
イデルが同意して微笑んだものの、可愛い少女の笑顔というものに免疫のないキッドは眉を下げ、羊飼いに向かってまっすぐ進んで行った。くぼんだ丸石に坐ってくつろいでいた羊飼いはふたりに背を向けていた。口琴と思われる楽器を熱心に吹いていて自身の奏でる音色に浸りきっているようだった。
「おい、お前。羊たちにここで何をさせてるんだ?」とキッドが野蛮な挨拶をした。
羊飼いは飛び上がって恥ずかしそうに口琴をポケットにしまうと、弁解するような顔をふたりに向けた。「俺はぁ羊たちにぃ草を喰わせてるんだよう」羊飼いは恥ずかしがりのスウェーデン人にしか出来ないような笑い方をしつつ、のろのろとした声でしゃべった。母なる自然が度を越えて寛大になり、この忌まわしき男に口を授けたのだと思えた。
イデルは絶句し、慌ててキッドのほうをちらっと見た。しかしこの男は目下やるべき仕事しか頭になかった。
「お前はあの谷の下でこれまでずっと羊に水を飲ませていて、昨日はこのお嬢さんに警告されても立ち去ろうとしなかっただろう。ここでの習わしも知らなけりゃ分別も持ち合わせていないのか? いちばん賢い選択肢はここからこそこそ出て行くことだぜ」
羊飼いの笑顔は強張って深刻な面持ちになった。「俺はぁこそこそなんてぇしねえぜえ。谷で羊にぃ水を飲ませてなんかいねえしい。今までぇ胃の病気だったんだあ。この一週間はぁ仕事なんかしちゃいねえ。おめぇバカじゃねえのかあ」
キッドは顔色が黒ずんだ赤みを帯び、今にも喧嘩を始めそうな勢いで馬から跳び下りた。「馬を走らせてちょっと離れたところまで行ってもらえねえかな、ネヴィンさん」と彼は言った。「俺の理解した限りじゃこのスカンジナビア人は我慢できないほど俺を侮辱しやがった。今からこいつをぶちのめしてやるぜ」
「そんなことにゃあならねえだろうなあ」彼はニヤッとした笑顔でのろのろとしゃべった。「俺はぁ胃の病気だったぁけどもお、それでもぉお前をぶちのめすことがぁ出来ると思うぜえ」
「おお、やるってのか?」キッドは不気味に落ち着いたままコートを脱ぎ捨てた。
「あなたに迷惑をかけたくないの、キッド」とイデルが気遣わしげに割り込んだ。「あ、あの人、別人みたい。わ、わたし勘違いをしちゃって」
「本当かよ?」キッドは不服そうに彼女を見つめた。「だったらもう少し早く間違いに気づいてくれてもよかったんじゃねえかな」コートを羽織った彼は気を悪くした様子で、イデルを直接なじっているかのようだった。
イデルは手綱を引いてテンドイを動かした。言葉を発することも後ろを振り返ることもなく尾根を登り、群れからはぐれた羊たちを四散させながら走り去っていった。
キッドは不機嫌な様子で馬に乗り、イデルが遠くまで走り去ったことを肩越しに確かめると、羊飼いに雪の降らないあの不浄の土地(8)にでも行っちまえと手短に警告をした。それから馬の蹄の音をとどろかせて尾根を駆け下り、谷を渡って帰って行った。馬鹿げたいたずらによって自分が嘲笑の的となったように感じて自分の良心に問いかけた。イデルはどうして自分をこんな目に合わせるのだろうと。
羊飼いは岩の上に再び腰を下ろし、自身の被った不当な仕打ちへの不満をぶちまけ、口琴を奏でて傷ついた心を慰めた。
イデルは谷の縁のとりわけ急な勾配を馬に下らせていた。馬は急勾配を嫌うとともに進行方向を指示されることにも抗って歩みを遅くしていた。まるでどちらへ進めばいいかわからないかのようだった。イデルはこの時点で機嫌を損ねていた。前の日の敵がどこからともなく突然に姿を現して微笑みながら向かい合わせになると、彼女は明確に殺意を持った眼差しを向けた。
「おはよう」と彼はためらいつつも陽気に話しかけた。
「あなた、ちゃんと石鹸を使って体を洗って来たでしょうね?」イデルは意地悪くからかってみせ、頻りにしゃがみたがっていたテンドイの手綱をいらいらして引っ張った。
「見ての通りあの谷から出て行ったよ」と彼は落ち着いた様子で話を続けた。
彼女は話に乗るのを拒んだ。
「それからクビになったよ」
彼女は怒りに燃えた瞳で食ってかかった。「わたしのせいにするつもりなんでしょう」と彼を咎めた。「ほんと、わたしのせいだったならよかったのに」
「そうはいっても君のせいじゃないから」と彼は気楽に言った。「僕は臨時の雇われだったんだよ。いつもの羊飼いが病気になっちゃって──」
「わたし知ってる。その人胃の病気だったんでしょう」イデルは自分の眼が微笑むままに任せた。しかし唇がそこまで寛大になることは拒んだ。
「じゃあ君はあの人に会ったんだね」と彼は笑った。「あの人は羊を連れて君たちの谷へ入るような馬鹿な真似はしないよ。でも僕は無知だったせいで罪を犯してしまった。今や職を失ってその結果として無害な存在になったからには、君も僕のことを許してくれるよね、たぶん」
イデルは彼を注意深く見つめた。「あれはただの不法侵入じゃなかったでしょう」と思い出させるように言った。「あなたの──失礼な振舞いに問題があったの。あ、あなた、ひどく不愉快な真似してくれたじゃない」イデルは自分が臆面もなく相手に譲歩しつつあるように感じた。でも、どういうわけか彼の眼はとても優しくて、それに──
「僕は独りぼっちで淋しかったんだ」と彼は厚かましくも主張した。「だから何とかして言い争いを長引かせようと努めたんだ。そうしなけりゃ君は馬に乗って立ち去ってしまっていただろう。必要なら君に叩きのめされてもかまわなかったさ。君を少しでも長く引き留めるためならね」
「あなた寝てたじゃない」と彼女は言い返した。それまで微笑んでいた瞳を煽り立てるように唇が言いつのった。「いきなり起こされるのは嫌いだって言ったでしょう?」
「僕が?」彼は自身の以前の発言を気にも留めないようだった。「僕はいろんなことをしゃべったと思うよ。羊を連れていたせいだよ。羊ってのは人を愚かにするんだ。君も知ってるだろう。もし僕がクビになっていなかったら──」
「それはお気の毒」と彼女は言った。「あなたに同情する義理はないけどね。働き口を探してるんならわたしのパパが用意してくれるかも知れない。でも羊飼いの仕事じゃないから。パパは冬のキャンプ(9)を取り仕切ってくれる人を探してるの。ここから15マイルくらい離れた場所で」彼女はこう言いながら自分の懐の深さを大いに感じたのだった。
彼は感謝しているように見え、少しおもしろがってるようにも見えた。なぜ彼がそんな様子なのか彼女にはわからなかったが。「出来ることなら君のお父さんに雇ってもらいたいよ。でもそれは無理だ。実は別の新しい仕事を見つけたんだよ、グレート・フォールズ(10)のほうでね。明日行かなけりゃふいになっちゃうんだ。そっちの仕事に腰を据えたほうがいいだろうと思う。安定してるからね。それでも嬉しい提案だよ、ありがとう」
「たいしたことじゃないから」と彼女は言った。いまだに自分の懐の深さを感じていた。彼の返事に少しがっかりしてしまったことは死んでも打ち明けられなかっただろう。「ぜひともその安定した仕事に就かれることをお勧めします。グレート・フォールズにはたくさん友達がいて休暇はあちらで過ごすつもり。あなたもきっと羊の世話をするより向こうでの生活を気に入ることでしょう」
「君の言う通りだと思うよ、ええと──ねえ、こんなお願いは心底意外かもしれないけど、君の名前を教えてくれないかな?」
イデルは例の立ち入り禁止の件を思い出し、自分の立場を高みに置いた。「わたしたちが再び顔を合わせることなんてないでしょう」彼女はにべもなく彼の願いをはねつけた。「自己紹介なんかしたって何になるのかわからない。わたしはあなたに立ち去るよう命じた女で、あなたはその命令を拒否した羊飼い」彼女は今や懐の深さと同様に自身の貞淑さをも感じた。その両者を併せ持つことで自分自身に大いに満足したのだった。
「だったらいいよ」と返した声にはあきらめの感情があった。「僕は自分の名前を君に教えるつもりだったんだけど、今はやめとくよ。君はむしろ知りたがってるんじゃないかと思うけど、今はどうあっても言うのをやめとこう。それから君の名前がイデル・ネヴィンだってことは知ってるんだ。ゆうべ知ったばかりなんだけどね」
「それがあなたのお役に立ったことを願うばかり」とイデルは怒りを燃え上がらせ、荒々しくテンドイの手綱を引いた。不意を突かれてテンドイはそれ以上急かされずとも何歩か進んでみせた。男はあとをついて来た。
「もちろん役に立ったさ」彼は愛想よく主張した。「名前を知りたくて、当然だけどそのために手段を講じたのさ。新しく何かを知るってことにはいつだって確かな満足が──」
「物事を学び続けるのはあなたの自由、お好きにどうぞ」とイデルはさえぎり、彼が手助けしようと近づく前にとっとと鞍に登った。「ひょっとしたら、他人の領分に関わらないすべをもそのうち学ぶんじゃないかしら」そう言って彼女はもう声の聞こえないところまで行ってしまい、二度と振り返らなかった。
イデルはルーサーズホール(11)のバルコニーの端に腰掛けたまま、落ち着きを取り戻しつつあった。インディアンの少女たち(12)の20分に及ぶプレーを観戦したばかりだった。数多の州の代表を打ち負かしてチャンピオンとなったインディアンの少女たちは近隣の一流チーム相手に、バスケットボールのチャンピオンならではのプレーを実演して見せた。拍手をし過ぎてイデルの手のひらはヒリヒリと痛み、フォート・ショーの選手たちのつむじ風のようなプレーに血圧もはね上がっていたのだった。彼女の周りは興奮した称賛の歓声でいっぱいだった。なぜなら、フォート・ショーがここから何マイルか西に位置しているにせよ(13)、グレート・フォールズの人びとは自分たちのチャンピオンに並々ならぬ誇りを持っていたからだ。
「今のは凄かったよね?」聞き覚えのある声が脇から尋ねてきた。
イデルはすぐさま振り向いた。元もと恨みを抱き続けることなど出来ない性格なので声の主に笑顔で挨拶を送った。いとこのボブは会釈をして「やあ、ドンじゃないか!」と言うなり、すぐさま席を外した。
不法侵入者はボブの坐っていた椅子にすぐさますべり込んだ。「いやもう、あのプレーは羊の群れを世話するのと同じくらい刺激的だったね」と冗談交じりに付け加えた。
「もしくは、決まりに従わない羊飼いの相手をするのと同じくらいじゃないの」とイデルが補足した。「今夜はあまり羊飼いっぽく見えないじゃない。元は羊飼いをしていた人だなんて思えないくらい──ほんとに」どういうわけか、彼女はここで羊飼いと遭遇したことにまったく驚きを感じず、むしろとてもよく知った仲であるかのような気がした。なぜだか説明はつかなかったが。
「ネヴィンさん」と彼は改まって言った。「僕が秘密の罪悪感を胸に抱いてから一か月以上にもなるんです。正確には5週間──5週間前の昨日があなたに会った最後でした。正直に言います。僕は身元を騙っていたんですよ、ネヴィンさん。あの日まで羊の群れの世話なんてしたことなくて、しかもあれは賭け事だったんです。エド・バージェスって奴のところにしばらく滞在してたんですが、エドが賭けをしたんです。僕が羊の群れを連れ出して、羊を見失うことも自分が迷子になることもなしに一日中世話をするなんて出来っこないって方に。賭けに勝ったのは僕でしたが、危機一髪でした。勝ちながらもなお最悪の結果を見る羽目になっていたかもしれないんです。あなたが僕に谷から去るよう命令しても、僕は動きませんでした。なぜなら犬たちに指示を出して動かすのが嫌だったんですよ、女の人の前では。だって、僕は犬の言葉を話すわけじゃないし、犬のほうも僕の言うことを理解できるようには思えなかったから。犬に何かさせるには、女の人には決して聞かせられない英語で長々と言い聞かせなければならなくって。それに僕はほかの国の言葉じゃ流暢に罵ることが出来ないし。あなたが所有してる谷にわざと羊の群れを連れ込んだんじゃないんです。ただ勝手に入って行っちゃっただけで。それで僕はあとについて行ったんですよ、その場を無事やりくり出来るかのようなハッタリをかまして。日が暮れた頃、犬たちが帰り始めて、それで僕もそのままあとについて帰ったんです。ハッタリをかましたままね。あの日以来ずっと思ってるんです。エドの賭け金を勝ち取ったのは罪に値すると」
「だったらどうしてわたしにそう言わなかったの?」彼女は許される限りの厳しさをもって尋ねた。
「いや、あのさ。羊の扱い方がわからないなんてことを初対面の若い女の人に向かって白状しろなんて無理があるでしょう?」と彼は主張した。「馬鹿げた話だけど僕の言葉を信じてほしいんです、ネヴィンさん。あの日は僕の人生で最も大変な一日でした。もっとも、そのあとであなたが──」
「だったらあなたが言ったここでの仕事って何だったの?」と彼女は即座に尋ねた。
「僕の仕事? ああ、そうだね。えっと、僕はまだクビにはなってないんだよ。で、その仕事で生活を続けられるんだ」羊飼いは思い悩む様子を見せた。「結婚して奥さんを養うことだって出来るかも」
「何人養うつもりか知らないけど、奥さんを迎え入れるってのはとても高くつく贅沢でしょう」と彼女は取り澄ました顔で忠告した。「車を一台抱えるほうが安くつくって言われてるくらいだし」
「僕は結婚して奥さんを養ってみたいんです」と彼は言い張り、その瞳がイデルの頬を熱くさせた。一瞬の間を空けて「どこに滞在してるんですか?」と彼は尋ねた。「あなたを見つけるために街中探し回ったんですよ。たいして大きな街でもないけど。それでもあなたのことを知ってる人は一人も見つかりませんでした──今夜この時までは」
「あなた、どう見てもわたしのいとこのボブのこと知ってるでしょう」とイデルは言った。「わたしはこの町に来てまだ3日。サード・アヴェニューにいるボブの家族のところにご一緒させてもらってるの」
「明日の朝電話をかけるよ」と彼はきっぱり告げた。「君が早起きさんだったらいいんだけど。どうかな? 10時だったら──」
「バカじゃないの!」と彼女は笑った。「電話の話をする前に、少なくとも自分のことを誰かからまともに紹介してもらいたいって考えるのが普通でしょう」
答える代わりに彼は振り向いてボブを手招きした。10フィート(14)ほど離れた場所をうろついていたボブはすぐさまやって来た。
「君のいとこに僕のことを紹介してよ」と不法侵入者が頼んだ。
「おい、何たくらんでやがんだ?」何かの罠かと怪しんだボブは突っかかるように言い捨てた。それでも彼の眼差しには抗えなかった。「しょうがねえなあ。イデル、こいつはドン・ロクレイっていう新進気鋭の若手弁護士さ。ほかの弁護士連中相手にさんざん勝ちまくってて、そのうち判事になるつもりなんだよ。それに街でいちばんデカくて真っ赤なやかましい音を立てて走る車を持ってて俺を2回轢きかけたんだぜ。家は北部でいちばんデカい人里離れた一軒家に住んでるんだ。それから──」
「もうそれでじゅうぶんだよ」と、紹介された方が断固としてさえぎった。「ここを離れてどこかに坐っててくれないか、それでなけりゃ立っててくれても構わないが。ネヴィンさんは君を必要としてないから」
「そりゃありがたい。俺は別に──」ボブは機嫌を悪くしてブツブツ言いながら立ち去った。
「さて、朝方に電話をするってことでいいかな?」とドン・ロクレイがささやいた。
「フォート・ショー! フォート・ショー!」と観衆が喚声を上げ、耳をつんざくようにホイッスルが鳴り響くと、試合はインディアンの少女たちが最初の30秒で得点を挙げる形で再開した。
「いいでしょう──ただし、インディアンのチームが勝ったらの話ね」イデルは肩越しにそう言うと、決然として向き直って観戦に没頭した。
「フォート・ショー! フォート・ショー!」とドンが吹き荒れる嵐のように叫んだのは、インディアンの対戦相手のゴールネットに再びボールが見事に沈んだときだった。「9時はちょっと早すぎるかな?」
<了>
訳注:
モンタナ州の植生でよく見られるパープルクレマチスやスティッキーゼラニウムなどの紫色系統の花の群生を指しているものと思われる↩
モンタナ州北部に位置するベアポー山脈のこと↩
羊は自分の前方の羊のあとをつけるように動く習性がある。したがって三つに分かれた群れが同じ方向に進めば、三本の線をまっすぐ引いたように足跡が残っても不思議なことではない。イデルはこの時点で羊の群れが近くにいることを確信したのだろう↩
西部開拓時代以来、牧牛業者と牧羊業者は放牧地で牧草を家畜に食べさせる権利をめぐって激しく対立していた↩
「君を怒らせる危険を冒すことは正当化される」(justified in risking your anger)という法的な権利の主張のような硬い言い回しが、汚い身なりの羊飼いには到底似つかわしくないものだったのでイデルは笑ったのだと思われる↩
約188cm↩
モンタナ州西部を流れる河川ナインマイル・クリークによって切り開かれた峡谷↩
未詳。イザヤ書1-18の「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(聖書 新改訳2017)という主の言葉に由来するものだろうか? 雪の降らない土地が不浄だという考えがキリスト教で一般的なものだとする根拠は見当たらないが、著者による純粋な創作だとも考えにくい。少なくとも当時のモンタナでは一般的に通用する考えだったのだろう↩
冬の厳しい寒さから牛を守るために牧場が行うキャンプ↩
モンタナ州カスケード郡の都市。19世紀末に鉄道が開通して各種の産業が興り、人口が飛躍的に増加した。参照:Great Falls History : A Short History of Great Falls, Montana ↩
ウィスキーの販売で財を成したMartin H. Lutherなる人物による建築物で、グレート・フォールズにおいて観客収容数の最も大きい施設だったようだ。参照:Those Pre-Pro Whiskey Men!: Montana’s Martin Luther: Not Just a Token Name, Champions: The Girls of Fort Shaw | Montana Women's History ↩
モンタナ州フォートショーにあったネイティブアメリカンの寄宿学校の生徒たちからなるチーム。1904年のセントルイス万国博覧会で対戦したすべてのチームに勝利して世界チャンピオンとなった。ここでイデルが目にしているのは彼女たちの凱旋試合ということになる。参照:Champions: The Girls of Fort Shaw | Montana Women's History, Louisiana Purchase Exposition - Wikipedia ↩
実際にはフォート・ショーはグレート・フォールズから西に24マイル離れた場所にある。統計上の区分でグレート・フォールズに組み入れられているが、地理上は飛び地の関係にある。参照:Fort Shaw, Montana - Wikipedia, Fort Shaw - 4-H Western Heritage Project ↩
約3メートル ↩
原文へのリンク:Ainslee’s Magazine 1906-01: Vol 16 Iss 6 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive